日毎に敵と懶惰に戦う

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東京ステーションギャラリー『パロディ、二重の声』を見る

水曜日、早めに出社してお仕事。午後から出掛けて、都内で打ち合わせ。東京ステーションギャラリーへ。『パロディ、二重の声』を見る。

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60年代70年代のパロディの意気が良かった時代を概観、横尾忠則赤瀬川源平などから、ビックリハウスにヘンタイよいこ新聞に全冷中に…と見て行くと

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パロディの意味そのものよりも、そんな時代もあったねぇ、と懐かしく見てしまうところが、現代のパロディの地位失墜をまさに現しているのかもしれない。

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最近のマナー広告の反動ぶりから俄かに再評価されている河北秀也の営団マナー広告もあるし、ポルの王子さまや、最近なら無理そうな表現の数々や。

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そして、最後のコーナーではマッド・アマノのいわゆる「パロディ事件」の判決文そのものがパロディとは何かを考える材料になっている、良い構成だった。パロディ事件の判決を報じる朝日新聞フジ三太郎が、かなりアカン内容で、こんなところにも時代の違いを感じたり。

マッド・アマノ、裁判と、今でも生き残っていることでずいぶん評価が底上げされてる感があるけれど、ハッキリ言ってパロディのクオリティは大概低いよね。最近、吉田照美が作った雑コラがいろいろ話題になって、70年代なんかなこういう雑なコラも含めてどういう風に受容されていたのかな、とか、いろいろ考えてしまったんだけれど

パロディは同時代性あればこそだから、『この頃にこれを元ネタにこういうパロディがあった』を作品のクオリティだけで評価するのは無理で、その時代において大衆にどう評価されたか、は極めて重要なファクターなんだよね。

吉田照美あたりの世代の人にとっては、自分の作ったコラが批判されるのがよくわからない、権力者に対する風刺が出来ない世の中は危険!と思うのもまあわかるんだけれど、正直、今の若い人にとっては、マスコミ自体は相当の権力に見えているわけで…。

そしてある人の指摘でハッとしたのは、昔はいろんな意味で表現がなんでもありだったんだけれど、それはいろんな差別表現が黙視されていた中でのことであり。セクハラ・パワハラが問題視されるようになると、当然、表現全般に対する目は厳しいものになるよね、権力者への風刺だけがその目から逃れるのは困難だよね、とも思った。

パロディ展は、美術館としてパロディ作品を展示すると同時に、その、大衆から見たパロディ、にも自覚的な構成だけど、もう少し踏み込みも欲しかった感もある。

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展示されている中で、ディス、ディスカバー・ジャパンな作品も今回あって、それを見たときに、あっ、と思ったんだけれど、2年前の「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」の展覧会からいろいろ繋がって、この展覧会に至ったらしい。 

監視員のおじいちゃん達もハイレッドセンターのハプニングのメンバーみたいだし、とにかく、いろいろ考えることが多く。よく練られた構成の展覧会だなー、と思ったですよ。

すでに話題になっているけれど『パロディ、二重の声』の図録はぜひ買うべきと思う内容、自分も買いました。あと、東京駅美術館共通券は他の3施設では売切、ここにだけまだ残ってるよ。

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その後、まだこれから仕事があるので、エリックサウスでミールスの晩御飯

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日が変わるくらいまで浦和で仕事して、終電近くで帰宅しましたのです

在華坊(@zaikabou)/2017年02月22日 - Twilog