日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

山田洋次『家族』

晩酌しつつ、映画鑑賞。山田洋次の『家族』。私の最も好きな日本映画のひとつ。長崎の伊王島の炭鉱で働く家族が、夢を求めて北海道の開拓村に移住するために旅をするロードムービーなのであるが、辛くて、暑くて、悲しくて、切なくて、やりきれなくて。ああ、俺は日本映画を見ている、という実感をこれほど伴う映画は無い。
旅をするのは4月なのだが、なぜか「すごく暑そう」という印象が、改めて鑑賞する前に残っていた。初めて目にする大阪の大都会、そして開催中の万博、そのあまりの人の多さに呆然と立ち尽くす家族。その映写が「暑そう」という印象を持たせていたのだろうか。
映画の中では、八幡製鉄所、福山の工場、富士の製紙工場など、工場の映写がとても多い。どの工場も色が無く、常に煙突から煤煙を噴き上げている。そして、対照的に人の多さと華やかさで表現される万博、大阪。しかし街が明るくても人が明るいわけではない。次に訪れる東京の街には華が無い。下町の小汚い旅館、不忍池、区役所、そして火葬場、教会。そう、教会。家族がキリスト教徒(カソリック)というスパイスが、この映画に対する印象をより複雑なものにしている。どう理解したらいいのか、解らないのだが。
旅の途中、次々に悲劇が起きたりするのであるが、この家族は、万博に寄ったり(外から眺めるだけだが)、新幹線に乗ったり、案外、いろいろとバラエティーに富んだ旅をしているのである。例えば大阪から北海道へは日本海側を廻る夜行列車のほうが楽なのでは、と思うのだが*1、当時の日本には「とりあえず新幹線には乗らなくては」というコンセンサスがあったのか。あるいは、家族で旅をする、などということはもう死ぬまで無いかもしれない、それならばこの機会に東京も見ておきたい、ということだったのか。そのわりには東京は寄り道せずに、そのまま夜行で東北方面に抜ける予定だったようだが。
この映画を見ていると、映画作品として楽しむ、というより、例えばこの旅程を計画して話し合う家族の様子を想像してしまったり、到底演技という範疇におさまるものではない「疲れ方」の映写であるとか、登場人物に感情移入して見ている自分がいる。自分とはまるきり違う境遇にいる人たちなのに。そして同時に、当時の世相、風俗がわからないと、絶対に理解できない時代の空気、共通言語のようなものが、映画の文脈の根底にあるような気もする。
笠智衆の炭鉱夫として生きたプライド、倍賞千恵子がとにかく若くて綺麗なこと、井川比佐志のやるせなさ、いずれも素晴らしい。

*1:まあ、それでは映画として成立しなくなるのだが