日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

オタクVSサブカルで興味深いのは結局個人語りだった件

読んだ。世間ではモテ非モテ論争とかで盛り上がっちゃったけど、私として興味深かったのは個人語りの部分。特に、自分が何と出会って、その断片からどのような物を知って、そしてどのように考えを変えて…という部分。
この話を見ながら、当然、自分のカルチャー遍歴を振り返り、咀嚼している自分がいるわけである。
そして、ここで思い出すのが、古い話になるが
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050730/popularperson
http://artifact-jp.com/mt/archives/200507/networkworldranking.html
のあたりであり。たとえば「ゲーム」とか、成果とか成績の見える化しやすいものの場合、いきなり世界ランキングに出なくてはいけない不幸、というのが見やすいわけだけれど、それは数値化されない部分でも同じようなことが言えるのだろう。
たとえば中学生のころ。何かの本を読んで世界を見た気になった、まわりの人間がすべて馬鹿に見えるようになった、そういう瞬間は誰しもあると思う。
そして、別の本を読んだり人の話を聞くことで、「誰でも言ってることなんだ…」と恥ずかしくなったり、あるいは「あの偉い先生も言っていること、結局は俺の考えたことと一緒なんだ」とより自尊心を肥大化させたり。
それを繰り返すことで、考え方のシナプスを増やしていく、そういうことは、自分にとってすごく大切だったと思う。
だけど、例えばblogを書いていてそんな考えを暖めようとしても、書いたとたん、それについての多種多様な見解、異論反論、議論の敷衍、新しい事実、そんなものが次から次へと降り注いでくる。はてななんかご丁寧に、キーワードリンクがそれを助けてくれる。それを見て、自分でいろいろ考える時間はなくなる。そこで得られるのは、情報を整理する技術だけだ。
それは、大人にとっては、いいことだ。思考が硬直しがちの大人にとっては、いきなり物事の多面性が見えることはとてもすばらしい。だけど、思考訓練をすべき子供にとっては、それはすごく不幸なことなんじゃないかと思う。間違ってしまうこと自体はたいした問題じゃないのだから、子供にとっては。
ネットが未成年にとって有害だとすれば、それはアダルト系なんかでは全然なく、このような視点をいきなり与えられてしまうことなんじゃないか、と思う。
オタクVSサブカルを読んで、自分のカルチャー遍歴、少しずつ関連のあるものに順番に触れながら考え方のシナプスを増やしていった日々を思い出して、また、岸野さんのネットに対する考え方などを読んで、そんなことを思った次第だ。