日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

とにかく隠岐へと渡る

松江の駅からは7時55分のバスで、隠岐へのフェリーが出る七類という港へ向かう。このバス、季節柄か大変な人数が並んでおり、1台では乗り切らず、2台目のバスがややあって駆けつけて、一路七類へ。
この時点での一抹の不安は的中というか大当たりで、隠岐の島に向かう9時のフェリーに乗り込むともはや満員、船室には入れませんからデッキへ行ってください、と悪びれもせず(別に悪びれる必要もないのだが…)、そこ・ここの通路にも敷物を敷いた座り込み、あるいは横たわる人々が大勢、しかたなく外に出てみれば、炎天下の最上部の甲板すら大勢の人で、貸しゴザの在庫もつきましたと無常な船内放送。せめてお日様隠れていてくれよ、と祈るような気持ちで、もはや青天井の下に寝転がるしかない

これでは難民船だ。ボートピープルだ。風が吹き、揺れる(ま、この日は波が穏やかでさほど揺れなかったのだけれど…)甲板上でジェンカに興じる若者などを見ながら、そして船は進み、七類の港を船は離れるのだった

さてここで、隠岐の地勢についてちょっと紹介しておきたい。
大きな地図で見る
隠岐島根県に属する群島で、それは大きく、『島前(どうぜん)』と『島後(どうご)』からなる。島前は主に“中ノ島=海士町”、“西の島=西ノ島町”、“知夫里島知夫村”と、それぞれ独立した行政区分の3つの島からなり、三島合わせて人口は7,500人ほどになる。
島後は島前の東に位置し、“島後”と呼ばれる大きな島だが、固有の島の名は無いようだ。面積は島前の3つの島をあわせた倍以上あり、人口も18,000人近く。かつては『西郷町、布施村、五箇村、都万村』4つの行政区分があったが、現在は『隠岐の島町』という1つに合併されている。竹島は、旧の五箇村、今は隠岐の島町に属しているのだった。
今回、隠岐に来たのは、今年の2月に訪れた壱岐対馬に続き、離島を巡る旅がしたかったこと、そして、離島は離島であっても、景勝地にはあまり興味関心は無く、式内社など謂れ因縁故事来歴の豊富なところを選ぼう…としたこと、が主な理由。さらに、御大曰く、所謂“六十余州”の一つである隠岐の地を踏めば、“六十余州に隠れのねえ”身になるというから、目出度い事である。ま、歴史のついた土地を巡れば、何かしら面白いことがあるには違いない。後鳥羽上皇後醍醐天皇が配流された島、それを肴に美味い酒でも飲もうじゃないか。
さて、本州側と島前・島後の間には、フェリーと高速船と飛行機、また、島前島後間の交通手段にはフェリーと高速船があるけれど、行き来しようとすると、自由に旅程を組みながら便をあてはめていけるような便数は無く、自ずと、船の時間に制約されながら旅程を組むことになる。今回はうんうん考えた挙句、まず初日は島後に渡り、レンタカーで観光した後、中心部の西郷に宿泊。翌日の朝に島前に渡り、島前内を行き来する島内船をうまく活用して、夕方には再び本州に戻る…というプランにした。主な景勝地見所を巡るには、最低でもこれぐらいの日程はかかるようだし、できればもう一日くらいの余裕が欲しいところではある。
…そうこうするうちに船の甲板上に日はかんかんと照り始め、船上にて持衰を気取る余裕も無く、僅かな日陰を求めて寝てやり過ごすに限ると思うたのも僅かな間、島影が見えてきた

船は西郷の港に到着

港には、こんな看板が

さっそく、小学校元教員と思しきご親切丁寧な婦人に先導されて、予約しておいたレンタカーを借りて(離島のことであるから、繁盛期は事前に予約しておいたほうが無難でしょう)島を巡ることにするが、その前に昼ごはん。西郷の港にほど近い食堂で食べた岩のりおにぎりは、まことに美味であったけれど、市原悦子似の女主人が切り盛りする店では旦那らしき男性とお手伝いらしき年配女性が厨房の中で右往左往するばかりで、見ていて飽きない