日毎に敵と懶惰に戦う

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クリスチャン・ボルタンスキー講演会『ボルタンスキー 人生と芸術を語る』

国立新美術館で開催される『クリスチャン・ボルタンスキー講演会』、はがきで申し込んだら当たった(ま、抽選するほど申し込みが多かったのかはわからないけれど…)ので、行ってきた。
ボルタンスキーの作品を最初に見たのは、東京都現代美術館の『死んだスイス人の資料』だったろうか。その印象が圧倒的で、すぐに好きな作家になってしまったのだけれど、自分のボルタンスキー好きを決定付けたのは、やっぱり越後妻有トリエンナーレの『最後の教室』だろう
大地の祭り−また、自転車に乗って - 日毎に敵と懶惰に戦う
時間の流れ、人の記憶、記録することの意味、そんなことを強く意識させるボルタンスキーの作品のファンになってしまったのだった。
さて今日の講演会。国立新美術館の講堂はかなり広い会場だったけれど、観客でぎっしり。フランスの放送局が製作したドキュメンタリーが流されていた。やがて時間となり、ボルタンスキー氏登場。今回は本人の希望もあり、映像やスライドなどは流さず、ボルタンシキー氏がフランス語で講演、そしてそれを日本語に通訳、というスタイルだった。
これまでの、そして現在製作中の作品についてもいろいろな話が聞けた。たとえば“世界中に存在する名前を読み続ける”というプロジェクト。しかし、読み上げている間にも変化し続けてしまうので、世界中の4万冊の電話帳を集めて展示してある、とか。アトリエの様子をリアルタイムでタスマニアの洞窟で流し続ける作品。ザルツブルグの教会の地下で、時報を流し続ける作品。人間がどうもできない時の流れを、教会という場で流し続ける意味。
あるいは、死海付近の砂漠に沢山のスピーカーが埋め込まれており、それを踏むと、録音された匿名の秘密が囁かれるというプロジェクト。まるで地雷のように、踏んだ人間は秘密を投げつけられる。あるいは、直島で計画しているプロジェクト。何百万人もの心臓の鼓動を集める作品。鑑賞者は、自分の心臓の鼓動も記録できると言う。
今現在、アートを投機の対象にしたくない、アートは哲学である、だから画廊での展示はなるべくしたくない、だからサイトスペフィックな作品作りをしたいと言う。そして、美しいものを作ろうという意思は無い、問いかけること、問題提起をすることを常に考えて作品製作している、とのことだった。
質疑応答の中では、アートを教えることはできない、教えられるとすれば、アーティストにとって何が重要な課題なのか気づかせること、自分自身を探求することだ、とか、作品はどうやってできるのか?目の前に壁があり、その壁が開くのをひたすらまつしかない。何かをすればいいわけではない、たとえばどうしようもなくくだらないテレビ番組を見て寝っころがって、絶望を極めたときに壁が開くんです、なんて話が面白い。
アーティストは断定するが、科学はレファレンスである、とか…しかしこうやって書いていていも、アーティストの話を要約するほど馬鹿馬鹿しいことは無いかも知れないねえ…。自分として何か感銘を受けたことを羅列しているだけなんです。
ボルタンスキー氏は1944年生まれ。父親はユダヤ人で、2年間自宅の地下室に隠れており、パリ開放の直後にボルタンスキー氏は生まれたという。だからホロコーストの問題は彼にとってあまりにも自分に深くコミットする問題であり、昔は作品に絡めるのが躊躇されたという。だけれど、『死んだスイス人の資料』などは、強くそれを意識した作品になっているし、その後も深くコミットする作品を沢山作っている。
越後妻有については、2009年は新しい作品では参加しないとのこと。しかし、あの場所はとても好きなので、いずれまた参加したい、とのことだった。『最後の教室』の扇風機は、子供の息吹なんだそうです。
そんなこんなで、最後の質問の人の『ボルタンスキーさんにとって、実存主義は色でたとえると何色ですか』という質問に思わずボルタンスキー氏噴出して会場沸いて、講演会は終わったのでした。
明日は直島に行くと言う。直島でもボルタンスキーの作品が体感できるようになる。ああ、また直島に行きたくなってきた。