日毎に敵と懶惰に戦う

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BankART School『大岡川を往く』最終回

7時起き…金曜日は東海道線も心持空いている。月曜日と金曜日、同じ時間でも電車の混雑って全然違うのよね。みんな月曜日は頑張っているのだろうか。出社して打ち合わせ、お仕事、昼飯は相変わらずの弁当、午後も社内で仕事。twitterのTLでは名和晃平展のオープニング、そしてカイカイキキ村上隆黒田清輝オマージュが話題になる中、6時半ごろに会社を出る。乗り継いで辿りついた関内駅の発車チャイムが、おお、本当に横浜ベイスターズの応援歌『熱き星たちよ』になっていたぞ。
BankART School『大岡川を往く』最終回は、初黄・日ノ出町浄化推進協議会副会長の谷口安利さん。駄菓子屋谷口商店店主。あのあたり一帯に拡がっていたちょんの間の一掃にかかわり、そのあと、扉を閉ざした空き家だけが拡がった場所をどうやって活性化したらいいのか(つまり、また元の木阿弥にならないようにするにはどうしたら良いか)を考えてきた。その中で、川にボートを下ろしてみたらとても楽しい!ということに気が付き、大岡川桜桟橋の設置を県と一緒に進めたり、そこからカヌーをおろして毎週のように川を行き来していたり。
大岡川はずっとフェンスも無い川で、40年前、川沿いの傾斜地には桜ではなく柳が植わり、そこに家が川岸ギリギリまで建て込んで、生活排水や糞尿を垂れ流しにしていた。そして水上生活者も多く、川には常にメタンガスが発生していた。昔からこのあたりに住んでいる人、野毛の人などには、川にはそのようなイメージが残っている。そんな中で、地元の活性化のために19年前からさくらまつりをはじめた。
常々、自分が不思議に思っていたのは、ちょんの間が沢山拡がる中でさくらまつりをやって、大勢の人がちょんの間が並ぶ川沿いを歩く様子が想像できない…ということだったのですが。聞いてみると、ちょんの間の全盛期は10年前、250軒700人からがいたころであり、さくらまつりが始まってから後に全盛期を迎えたわけなんですね。だから、さくらまつりをやる人の間で、あれをなんとかせにゃならん、という意識になった。桜まつりがあったからこそ、周辺で団結して、そして市や県を巻き込んで、早々に一掃することが出来た、ということなのだった。
現在はEボートを2つ所有しており、イベントなどで使用している(利用率はそれほど高くないので、きちんとした計画を持った人は借りる話をしてみると良いですぞ)。7月10日には、大岡川ボート乗船体験をすると言う。
会計事務所アルバイトの特徴
↑webページには近々情報が上がるのではないでしょうか。
船で遊ぶためにネックになるのは、船を降ろす場所、そして船を保管しておく場所。
大岡川桜桟橋は、設計から一貫して地元商店街が強固に関わり、意見を言って作られ、今もしっかり管理して利用されている。下流の弁天橋のウッドデッキや、上流の蒔田公園などは、桟橋はあるのだけれど、あまり使用されていない状況になる。たとえば蒔田公園では、ブイが外せない、老いるフェンスに鍵がかかっているなど、まともに使えない状況になる。こういうのは、周囲の川利用者や、地域の人が協力に行政側にプッシュしていかないといけない。
大岡川流域だけでなく、所謂横浜下町地区全体として、まとまって活性化をしていくにはどうしたらよいか。たとえば大岡川にしても、ピカピカに綺麗にしてしまうのではなく、今ある資産を活かすこと。川に降りてみると、昔の材木問屋に荷揚げするための桟橋の遺構が沢山みつかったり、かつて舟をもやっておくための設備が少し残っていたり。そういうものを活かしていくこと。普段生活しているだけだと気が付かない、むしろ邪魔にしか思えないような古い部分の魅力を再発見して、地元に利益を還元していくこと。自分は根岸森林公園から山の住宅地の中を抜けて、八幡橋、横浜橋、そして伊勢佐木町、若葉町から大岡川沿いによく散歩するけれど、本当にいろいろ面白いんだよ、このへんは。
そんなこんな、いろんな話を、講座の途中からはディスカッション形式で。そして、終了後はPubのほうに移って、いろいろ話したのでありました。
谷口さんはとても若く見えるが、今年で70歳。横浜大空襲で、小学校の建物に非難した人はみな亡くなり、防空壕に逃げてなんとか助かった話。日ノ出町から見て、大岡川を渡った先がフェンスで覆われて米軍の土地になっていた話、若葉町にセスナ機の飛行場があった話などなど、昔の話がいろいろ聞けたのも良かった。
この『大岡川を往く』参加人数こそかなり少なかったものの、地元で主体的に活動している人達ばかりで、とても有意義な意見交換、情報共有ができたと思います。これだけで終わるのではなく、今後も活かしていきたいですね。