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日中歴史共同研究における『南京攻略と南京虐殺事件』『南京大虐殺』の記述

日中歴史共同研究とは、2006年から2009年にかけて、日本と中国が共同で行った歴史研究です。

2005年の日中外相会談で小泉政権町村信孝外務大臣が日中歴史共同研究を提案し、2006年の日中首脳会談で歴史共同研究を行うことが決まった。2006年12月に北京で第1回全体会合、2007年3月に東京で第2回全体会合、2008年1月に北京で第3回全体会合、2009年12月に東京で第4回会合が開かれ、共同研究が終了した。2010年1月に報告書が発表された。
日中歴史共同研究 - Wikipedia

この報告書発表後、中国側からはこのようなコメントが出されています

南京虐殺について事件の性質において「判断が一致した」として、「注目すべきは単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為という認識を持つことである」という中国側の首席委員で中国社会科学院近代史研究所長の歩平氏のコメントを紹介するなど、成果があったことを伝えている。

「中国側の主な参加者は歴史学者だが、日本側にはほとんど歴史学者がおらず、おもに政治学、法学の専門家で組織されている。彼らの大部分は自由主義史観の影響を受けた、日本の中間派を代表する学者である。中にはやや『右』に偏っている学者もおり、その中で侵略問題などに関して大枠で共通認識が持てたことは大変素晴らしいことである」という華東師範大学歴史学部の楊奎松教授のコメントを掲載、さらに「学術上の意見の食い違いは正常であり、メディアは食い違いを拡大させてはならない」という歩平氏の指摘も紹介した。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml

ということで、小異はありつつ、概ね満足できる見解の一致を見た、ということのようです。本件の報告書は当初、それぞれ(日本側10人、中国側10人)が執筆したものがそれぞれの国の言語で発表され、その後、別言語に翻訳されたものが発表されています。当初は完全な共同論文にするつもりがそれが無理だったのか、はじめからこのような形態にするつもりだったのかは、よくわかりませんが…。
外務省: 日中歴史共同研究(概要)
ということで、日本の執筆者による報告書と、中国の執筆者による報告書(日本語訳)のうち、南京事件…日本語側は『南京攻略と南京虐殺事件』、中国側は『南京大虐殺』と記載している部分を抜き出して転載しておきます。それぞれのオリジナルが発表されたのが2010年1月31日、翻訳版が発表されたのが9月6日ですので、かなり翻訳に時間を要したようですね…。翻訳版の発表時は、ほとんどニュースになっていなかったような記憶があります。
人数だけに拘るべきでは無いとは思いますが、特に被害者数に触れてる箇所を太字で強調しておきます。

日本側論文『南京攻略と南京虐殺事件』

参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた。
11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。
国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた。
支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった。
虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた。
さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大きな影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf

中国側論文『南京大虐殺

日本軍は上海を占領した後、引き続き西に進み、国民政府の首都南京を脅かした。11 月20 日、国民政府は首都を重慶に移して、抗戦を続けると宣言した。26 日、国民政府は唐生智を南京守衛部隊司令長官に任命し、13 個の編成師団と15 個の連隊合わせて15 万あまりの兵力を指揮下におき、南京の防衛に当たらせた。12 月1 日、日本の大本営は正式に「大陸命第8 号」命令を下し、「華中方面軍司令官は海軍と協力して、敵国の首都南京を攻略せよ」と命じた。3 日、日本の上海派遣軍と第10 軍をあわせた10 万人余りの兵力は、飛行機、戦車と海軍艦隊の援護で、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施した。中国守備軍は勇敢に抵抗したが、12 日に日本軍の強力な砲撃を受けてやむをえず包囲網の突破作戦を実施した。13 日、南京は陥落した。
日本の海軍が南京附近の揚子江を封鎖した後、中国守衛軍はほとんどが包囲網を突破できずに捕虜となった。日本軍は後方支援の準備が不十分で、捕虜の数が多すぎるために安全面を憂慮し、いくつかの部隊で「基本的に捕虜政策を実施せず」、大量の中国軍人が捕虜になった後、日本軍に集団で虐殺された。第16 師団中島今朝吾師団長は12 月13 日の日記の中で、「事後知っていたが、佐々木部隊だけでも(捕虜を)1 万5 千人処理し、太平門を守備していた一人の中隊長が1,300 人を処理した。仙鶴門附近に集結したものは約7、8千人あった。このほか、まだ大勢の人が続々と投降して来た。……上述した7、8 千人を処理するのには、大きな堀が要るが見つかりにくい。これを100 あるいは200 人の小隊に分けて適当なところに連れて行って処理するつもりである」としている。南京を攻略した後も、日本軍は相変わらず捕虜をまとめて虐殺しつづけた。第13 師団の山田支隊は日本軍の入城式の前日、揚子江沿いの幕府山の麓で数回に分けて約2 万人を虐殺した。現在発見されている日本軍の南京戦闘詳報においては、その戦果として具体的な殲滅人数はほとんど列挙されているものの、捕虜の人数はほとんど記載されていない。日本軍が南京戦で、上から下まで捕虜の虐殺政策を徹底的におこなったことは間違いない。
退路がなかったので、中国の守備軍の一部の将兵は軍服を脱ぎ武器を捨てて、南京の難民区に逃れていった。「敗残兵」を捜査し捕まえるために、日本軍は男性の顔つきだけをもとに勝手に判断した。そのため、多くの民間人が軍人と誤認され殺害された。12 月24 日だけでも金陵大学の難民所であるテニスコートで、一日に二、三百人が日本軍に五台山と漢西門外に連れ出され虐殺された。
市街地と同様に、日本軍が南京近郊の広大な農村地帯で起こした民間人虐殺の暴行も、猖獗をきわめた。1938 年3 月から4 月まで、金陵大学社会学部スマイス(Lewis S. C.Smythe)教授が行なった江寧、句容、凓水、江浦、六合などの地域でのサンプリング調査によると、日本軍の虐殺による死亡者数は3 万950 人で、民間人が1 千人当たり29 人死亡し、7 世帯毎に1 人が殺害されたことが判明した。年齢構成から見ると、15−59 歳の死亡者数は全体の77%、60 歳以上の老人が12%を占めていた。また、殺害された4,380 人の女性のなかで、83%が45 歳以上であった。戦後、1946 年国民政府が行った社会調査では、南京東郊の第十区孝陵衛が提出した死亡者記録は456 人で、60 歳以上の者が117 人、最高齢者は90 歳であった。男女比では、男性344 人、女性112 人で、女性の比率が25%に近かった。
捕虜と民間人に対して狂気じみた虐殺を行ったほか、日本軍は南京を攻撃し占領する過程で、公然と中国の婦女を強姦した。当時国際安全区であった金陵大学の難民所にいたベイツの記述によると、「有能なドイツの同僚の推定では強姦は2 万件にのぼる。8 千件を下ることはないだろうし、さらに多いかもしれないと思う。金陵大学の構内だけでも、我々教職員の宿舎と現在アメリカ人が居住している家を含めて、私が詳細な状況を把握しているもので100 例余りあり、確信判明できるものはおよそ300 例ある。人々はこのような苦痛と恐怖を想像できないだろう。11 歳の小さい女の子から年取った53 歳の婦女までが無残にレイプされた。神学院のなかで、17 名の兵士が白日の下で一人の婦女を輪姦した。実際のところ、こうした案件は三分の一が昼間に起こった」。日本軍は兵士による勝手放題の強姦が性病を伝染させ、戦闘力を低下させることを恐れたため、南京を占領してまもなく南京に慰安所を設置しはじめ、多数の中国人女性を強制的に日本軍の性奴隷とした。
日本軍が南京を攻撃し占領した後、放火と掠奪が日に日にエスカレートした。英米人の住宅を含めた公私の建物がいずれも日本軍の掠奪と焼き討ちの標的となった。スマイスの調査によると、城内外の89%以上の建物が焼き討ちに遭い略奪され、24%の家屋が焼き払われ、城内の73%もの家屋が掠奪にあった。第16 師団長中島今朝吾までが掠奪に加わった。最も皮肉だったのは、中島本人の財物までが封印の紙を貼ってあったにもかかわらず、ほかの部隊の日本軍により盗まれたことだ。中島は日記の中で、「もし自分の管轄範囲内で物を探すのであれば好きにさせ、少なくとも戦場心理の表現として、恐らく道徳に悖るとは考えないだろう。しかし他人の勢力範囲内に入りしかも司令部の標識が打ち付けられている建物で、平気で盗みを働くのはあまりにも行き過ぎている」としている。日本軍の南京における掠奪行為は、ここからその一端が見られる。
南京における日本軍の暴行を目撃したアメリカ人記者スティール(A. T. Steele)、ダンディン(Frank Tillman Dundin)、マクダニエル(C. Y. McDaniel)などが12 月15 日に南京を離れた後、アメリカの『シカゴ・ディリー・ニュース』、『ニューヨーク・タイムズ』とイギリスの『タイムズ』、『マンチェスター・ガーディアン』などが、日本軍が南京で捕虜や民間人を虐殺した残虐な行為を連続して報道した。その後、南京に残されていた西側の宣教師と後に南京に戻ってきた英・米・独などの外交官が、さまざまなルートを通じて日本軍が南京で暴行を続けていることを報告し、世界の世論を驚かした。1938 年2 月、華中方面軍司令官松井石根大将は、このために日本の参謀本部に呼び戻された。しかし、日本軍が南京を占拠した翌日、東京では40 万人が盛大な提灯行列を行い、南京攻略を祝った。
日本軍が南京で残虐行為をはたらいたことに関するニュースは、日本国内ではずっと封印されており、日本の敗戦後、極東国際軍事裁判南京大虐殺を審理する時になって、日本国民は当時日本軍が南京で犯した暴行の真相を初めて知ったのである。
日本軍の南京における放火、虐殺、強姦、掠奪は、国際法に著しく違反していた。第二次世界大戦終結後、連合国は東京で、中国は南京でそれぞれ軍事法廷を設けて、南京大虐殺事件に対して審判を行った。極東国際軍事裁判所での判決書の認定によれば、「占領されてからの最初の一カ月に、南京城内では2 万件余りの強姦事案が発生した」、「日本の軍隊に占領されてからの最初の六週間で、南京城内と附近の地域で虐殺された民間人と捕虜の数は20 万人を超える」。南京国防部軍事裁判所は、南京大虐殺において集団で虐殺された人数は19 万人以上にも上り、他に個別に虐殺された者が15 万人以上おり、被害者総数は30 余万人であると認定した。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf

ディティールにも相当な差があるようであり、どの程度成果があったと言えるのか、かなり疑問符ではあるのですが…。また、それぞれの報告書をそれぞれの政府の公式見解と位置付けてよいものなのかどうか、私には論評できませんが、現状の認識として読んでおいて損は無いように思います。
ちなみに、中国側座長の歩平さん数字に関して、以下のようなちょっと含みのあるコメントを出していたのも印象的でした。

「数字に関する実証的な研究は必要だが、一般的な『認識』を『事実』に近づけていくには、まだ時間が必要だ」(朝日新聞1月29日付)
15年戦争資料 @wiki - 秦郁彦(現代史家・元日本大学教授)