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東京都現代美術館『転換期の作法』など


ポーランドチェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術を紹介する、「転換期の作法」展を鑑賞する。
まず総じての感想を。いや、面白いよこれ。見ないと損だよ絶対。全体といて、自己言及的な…というか、美術ってなんなのよ、と問いかけるような作品が多い。それはその、「けっ、なんでもかんでも美術って名前付ければ美術かよ」ということではなくて、「えっ、これも美術の範疇に入れるの?」という、別な名前で出しても価値を持ちそうな、いろんなものが「現代美術」という括りで提示されているという印象。
アルトゥール・ジミェフスキの作品は、どれも良質のドキュメンタリーとして成立するような作品。「我らの歌集」という作品。ポーランドから様々な理由でイスラエルに移住した老人たちに、昔のポーランドの歌を思い出して歌ってもらう、という作品は、私は思わず涙を流しそうになった。映像の編集が非常に上手だ。
アゾロという4人組の作品は、例えば「全てやられてしまった」では、美術の企画を4人が話し合うんだけど、それもこれもみんな誰かがやっちゃったよね…という会話が延々と続き、脱力的な笑いを振舞いつつ、ああ、美術って…というような思いに駆られる。一転、「芸術家は何をしてもいいの?」という作品では、そのご大層な題名に反して、歩道橋の上から4人で唾落としをしたりしてくすくす笑いが…。
そう、笑い。相当数の作品に、笑いが含まれている。とにかく、見て楽しめるものでなくてはいけない、という意識からなのか、訴えたいことのプリミティブさとはあまり関係ないところでユーモアが含まれている。つまり、美術を受け入れてもらうためにはユーモアが不可欠なのか、あるいは現代美術家もエンターテイメントの提供者としてきっちり認知されているということなのか。
映像作品が多く、見ていると疲れる。しかし、ほぼすべての映像作品が、じっくり見ていると引き込まれるような力強さを持っている。時間の感覚が少し長いのかもしれない。そのあたり、「過渡期」というか「転換期」なのか。いずれ「洗練」を経て、いわゆる「現代美術」になってしまうのかもしれない。ともかく、非常に面白いので長居してしまった。
その後、「MOTアニュアル2006 日本画から日本画へ」も。松井冬子の「ただちに穏やかになって眠りに落ち」と幽霊画、それから町田久美と三瀬夏之介の画が良い。常設展も覗く。
16時から、アルトゥール・ジミェフスキの「繰り返し」の上映会があるとのことで、講堂へ。この作品は、監獄実験
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93
を再現した様子のドキュメンタリーとなっている。日給40ドルで募集された人々が、抽選で看守と囚人に分けられて、擬似的な監獄で日を過ごす。ほとんどの人達が、とても良い日給目当てで応募した、という点が肝である。途中で止めたくなったら「契約を破棄する」という「魔法の呪文」を唱えれば、報酬が無い(減らされる?)代わりにその場から開放されるのだ。
元の実験では6日目に実験を中止せざるを得ない状態に追い込まれるが、この映像では、最初は比較的平穏に過ぎていく。しかし、規則を病的に守ろうという意識が次第に働き始め、次第に一人抜け二人抜け…で、ついには「囚人同士に頭を刈らせたり」「小用を監獄の中で、バケツにさせたり」という現象が生じていく。
この時点で残っていたのは囚人3人、看守2人。看守の所長役は、自分のしている役割に耐え切れなくなり、囚人たちと話し合いをはじめ…囚人たちは言う。「契約を破棄する…おまえはこうして欲しかったんだろう?」。所長役は素直に頷き、そして実験は終わる。
なんとなく、中途半端な結末ではあったが、示唆に富んでいてなかなか面白い映像だった。それやこれやで、結局、現代美術館に3時間ほど滞在。十分に楽しんで、バスで東京駅、それから中央線で新宿へ。サブナードのサルバトーレでピザを食い、ロフトプラスワンに向かう。