日毎に敵と懶惰に戦う

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横浜美術館 高嶺格『とおくてよくみえない』の不穏さ

とおくてよくみえない

ちかくによれば

よくみえるけれどもこれはただのたれまくでてんらんかいのことはよくわからない。そもそもなにがよくみえているのか


横浜美術館
横浜美術館で、高嶺格の、首都圏でははじめての大規模個展『とおくてよくみえない』がはじまった。高嶺格の作品は、全容や一貫した何か、一定したスタイル、そういうものを聞かれると困る。よくわからない。2005年の横浜トリエンナーレにおける『鹿児島エスペラント』はとても素敵だった
また横浜トリエンナーレ - 日毎に敵と懶惰に戦う
『横浜トリエンナーレ2005』 - 関内関外日記
しかし何が良かったか問われるとなんともわからず、しかしとても良かった。奥さんである在日韓国人との結婚についてのモノローグ『ベイビー・インサドン』をはじめて見たのは、ZAIMでの、増山麗奈がキュレーションした展覧会で
ZAIM『ART LAN@ASIA アジアの新★現代美術!!』 - 日毎に敵と懶惰に戦う
その後、森美術館などあちこちで見る。パーソナルな話題を、かなり分かりやすい形で、そう、高嶺格の作品に通底したものとして権力への疑義やこの社会への告発はもちろんあるのだが、それはなかなか分かりやすい形では提示してくれないのだけれど、これは珍しくわかりやすい形で。しかしそれでも人を食ったようなところがある。また、あるいは、丹波マンガン記念館で行った『在日の恋人』に関するインスタレーション
必見の展覧会『ウィリアム・ケントリッジ』。その他、DOMANI展、銀座など - 日毎に敵と懶惰に戦う
自分は上記ではそのドキュメントの一端を垣間見ただけたっだけれど、在日の恋人について、記念館の館長にしてアクティヴィストの李龍植さんについて、極めて重い話題が、インスタレーションの馬鹿馬鹿しい規模を実現させようとする中で、李龍植さんの日常を営み生活していく力のあまりの力強さや、仮の庵暮らしのアーティストの生活感が浮かび上がり、日常と社会問題が溶けあっていく。一筋縄ではいかない。
一方で、アラタニウラノで見た『スーパーキャパシタ』は、何が何だかよくわからない、つまらないだけの展示のようでもあった。ネオテニージャパンで見た高橋医師のコレクションは、ちょっとした立体作品で、言われなければ絶対に高嶺格の作品だろうだとはわからない。そして最近見たものは、金沢での展示で
金沢自転車散策、そしてまるびぃへ - 日毎に敵と懶惰に戦う
家に取り込まれたような怖さを伴った作品で、これは大変に良かった。そうそう、六本木クロッシングの時に上映された、ダムタイプの『S/N』にも高嶺格は参加しているのだ。これはもう、とにかく、素晴らしい。


ともかくにも、印象には多く残っているのだけれど、一定した印象が無い。よくわかならい。魅力的だが不思議。その高嶺格の個展が横浜美術館で行われる。よくわからないタイトルで
入場するところから不穏だ。そう、この展覧会をすべて覆っているのは『不穏』さ。自分が独裁的な権力者だったならば、こんな不穏な展覧会は絶対にやらせない。そういう不穏さだ。会場エントランスにオロローン、オロローンと獣の咆哮のようなものが響き渡り、展示空間にもその音が入り込んでくる。大きな白い、あまり綺麗では無い白い布が、大型の扇風機4台に煽られて、揺れている。これは高嶺格の作品に共通しているのだけれど、制御の緻密さと、表面に見えている部分の曖昧さの落差、対比がある。
2004年の、横浜美術館での展覧会において、展示することが出来なかった『木村さん』…身体障害者である木村さんの介護と、その性処理まで行ったビデオ…についての話題から、展覧会ははじまる
高嶺格『木村さん』を見る - 日毎に敵と懶惰に戦う
最初の部屋の作品は今年制作されたものだ。絨毯。絨毯売り場にでも展示されていれば、ふーんと通り過ぎていってしまいそうな意匠の作品が、美術史的な体裁を持って並べられる。絨毯なので造形の細かさは自ずと限度があり、ドットを明確に判別できるデザインの作品が、暗い空間にスポットライトを浴びて並ぶ。脇についた解説の、まさに美術的な解説が大真面目で、しかし展示されているものは絨毯なので、なんだかよくわからない。そして最後には何も中味の無い額縁。最初から立ち止まる。これはどこまで真面目でどこからふざけているのか。この日あったトークで、くしくも言われていたこと

三木さんは語った。
「どの作品の前にいても“居心地の悪さ”を感じます。けして理解しえない、というところから出発しているんですね。価値基準自体を疑うところもある。相反するもの、たとえばぐちゃぐちゃのものとテクノロジー、原始的なものとカチッとしたもの、が共存しているところがおもしろいです」
「とおくてよくみえない」高嶺格×三木あき子クロストークにて | Take Art Eazy! [ TAEZ! ]

そう、居心地の悪さだ。なんかこう、大人しく離してくれない。カタルシスを安易に与えてくれない。ああ、素敵だったねえ、ぜんぜんつまらなかったねえ、で終わらせて貰えない感じ。
次の展示室はとても暗い。最初の部屋も暗いが次はほんとうに暗い。自閉症気味の男性だろうか、最初の部屋から怖い暗くて怖いと言っていて、次の部屋に入ってますます暗い怖いと言い、職員が大丈夫ですかと駆け寄り外に抱え出していた。
次の部屋には、鹿児島エスぺラントと同趣向の作品。と言っても、それ以前に作られたものの再制作。鹿児島エスぺラントにあったような、わかりやすいカタルシスが一片も無い。まったく全体像の見えない暗闇を、スポットライトのわずかな光が順番に照らし、地面に書かれた文字を追っていく。インスタレーション全体はとても詳細に作りこまれていることはわかるけれど、しばらくすると目が慣れて全体像が見える…というようなことは無い。まったくわからない。ただただ、スポットライトのままに、そこに書かれた文字の部分だけを追っていくが、もどかしいほどに困難で、一部分を追っているうちに他の部分は忘れてしまう。
全体が見えない。部分を追っていて全体がわからない。強制的にその部分を指定されることへの拒絶感。しかし、この作品はそれをわかりやすい形で示しているだけであり、我々の日常生活はどれほど、見えていても全体が見えているのか?自分の見たいように部分を見ているのか?見させられているだけではないのか?カタルシスの無い、居心地の悪い展示空間で、もやもやとそんなことを思い始める。
暗室から外に出る。オロローン、オロローンと咆哮が聞こえ、布が煽られている前で、映像作品が展示されている。ニューヨークの街角で、古着屋と物々交換をしながらどんどん変身していく映像。遠目に撮影した傍観者的な映像。その両側に、観光地のような顔抜きがあり、顔の部分に時々顔を浮かびがっては、意味があるのか無いのか、よくわからないことを呟く。外国人が、怪しい日本語で。なんなんだろう、これ。大勢、真面目に見ているが、真面目に見ているようなものなのだろうか。そして、オロローン、オロローン、布はめくれてぶおぉー


次の部屋には、パレスチナの活動家の女性との会話をおさめたビデオ、そして《God Bless America》、このへんについては彦坂さんの解説が面白いか

だから高嶺格という人の行為は、事実をつくる事実家のものであって、作品を作る作家というものでは、ないのであります。
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-09-06

次には『ベイビー・インサドン』、またいくつかの作品。この部屋の作品には社会の存在、現実の私としての居心地を悪さは感じるけれども、芸術作品との対峙という意味においては、あまり居心地の悪さを感じるものではない。いずれにしても、高嶺格の仕事における重要な部分であることは間違いない。
最後の部屋、低い天井をくぐると、大規模な作品『とおくてみえない』がある。中味については現地で見ていただきたいけれど、これもどうにも、人を食っている。インスタレーションというよりも、パフォーマンス、舞台作品ととらえたほうが良いかもしれない。
入場当初に抱いた不穏な雰囲気が最後まで続く。最後の『とおくてみえない』も投げっ放し、というか投げられっぱなしで、最初から最後までとにかく不穏で、不安で、不親切で、居心地が悪い。はっきり言って、高嶺格にこれまでまったく興味を持てなかった人に勧める展覧会では無い。はあ?って感じでサッと通りぬけて終わりかもしれない。じっくり見れば魅力が、というものでもないかもしれない。しかし私はもっと見たい。そういう展覧会だった。全体を通しても全体像はまったく見えない。そもそも全体像なんてあるのだろうか………。図録がよく売れていた


memeさんのレビュー、とても参考になります
あるYoginiの日常 高嶺格 「とおくてよくみえない」 横浜美術館
黄金頭さんの、こういう、もやっとしたものを言葉に出来るのは、素晴らしい
ちかくてもよくみえない〜高嶺格「とおくてよくみえない」〜 - 関内関外日記


常設展はいつも通り行われており、ここのコレクションは日本画、写真まで含めて安定したクオリティで、安心して見ることが出来る。今回、横浜美術館が所蔵する奈良美智の作品31点が、はじめてまとめて展示されている。奈良美智ファンの人も行ってみるとよいかもしれない