日毎に敵と懶惰に戦う

はてなダイアリーから引っ越しました。酒と食い物と美術と旅と横浜と建築と演芸と…

フェデリコ・カルパッチョの『極上の憂鬱』と、「ニセガイジン」フォーマットの面白さについて

外国人に言われるとなんとなく有難がってしまう傾向は、思想の左右問わず日本ではありがちな傾向であって、その習性を利用して外国人を装って何か意見する例は、まま、見られるところである。

古いところではイザヤ・ベンダサンポール・ボネにヤン・デンマン、最近ではパオロ・マッツァリーノとか、Twitterではエリック・Cとか、はてなではガメ…いや、これは「疑い」なのでこれ以上は書きませんが…

で、私の好きなニセガイジンというと「フェデリコ・カルパッチョ」氏が筆頭である。自分の人生に影響を与えた…というか、こういう風に生きて、こういう文章を書いていきたいと思い、今でも思っているのが、フェデリコ・カルパッチョの『極上の憂鬱』という本なのです。出版社は今話題の幻冬舎

エル・ジャポンなどの連載から1994年に単行本化された『極上の憂鬱』は、日本で暮らす謎のトスカーナ人による日本見聞録という体裁だが、実際は「翻訳者」ということになっている木暮修氏が書いているのである。

フェデリコ・カルパッチョ氏、日本の食文化を中心としたさまざまな文化に深い造詣を持ちつつ、多くの誤解も持ちつつ、ご飯を食べたり各地に遊びに行ったり女子と遊んだり、実在のレストランやデパートやホテルの名前も多数登場しながら、享楽的に過ごす様子が描かれるエッセイとなっている。

「ヘンナガイジン」の目を通して見えるバブル崩壊期の日本の様子がウィットたっぷりに描かれ、ちょっとしつこい軽妙洒脱な文章がツボにはまる。その享楽的な生き方、洒脱な文章に、私もこのように生きていきたい、こんな文章を書いていきたい、とずっと思っているのだ。

私はこの本に『ミシュランやゴー・ミヨにはある程度以上の店は載っているが、それには至らない街場の店は載っていない。しかしその必要も無い。初めての街で、良い店を見つける嗅覚を持たずしてどうして旅ができようか』という薫陶を受け、以後、座右の銘にしている。

熱海駅前のさびれた喫茶店を見ると、都内で金曜の夜に飲んでいた微妙な関係の男女がその場の勢いで電車に乗って熱海まで来たはいいがろくな宿も無く駅前の古びた旅館をなんとか見付けてその夜はなんだかとにかく盛り上がってしまい寝不足気味で迎えた朝に窓の外を見ながらぼんやり会話も無くトーストを気怠そうに齧って…そうな駅前喫茶店だな、と思うようになったのもこの本の影響である。

「古き良き時代」オーボンヴュータンをはじめ、多くのことを教えてもらった。東京に出てきたばかりの男子大学生にとっては、ホイチョイよりもよほど高尚で実用的な…その精神性において…アンチョコにもなり得る可能性を秘めた本である。活用できれば、ですが。

そんなわけで、時々、本棚から取り出して、読み込んでしまう、そんな本なのです。

フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱 (幻冬舎文庫)

フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱 (幻冬舎文庫)

 

続編は、ちょっと平板になってしまって落ちるが、ま、面白い 

フェデリコ・カルパッチョの優雅な倦怠

フェデリコ・カルパッチョの優雅な倦怠

 
フェデリコ・カルパッチョの旅は、微笑む。 (知恵の森文庫)

フェデリコ・カルパッチョの旅は、微笑む。 (知恵の森文庫)

 

 

  フェデリコ・カルパッチョの中の人、木暮修氏は、2006年に48歳で亡くなっている。若い。独自な見識を持ちながら、おねえちゃんと遊んで美味いもの食ってな『極上の憂鬱』が出版されたのは、1994年、36歳の時なのだ。その年でそういう境地に至りつつ、やはり、お酒は命を縮めてしまったのだろうか…

 

で、ここからは余談。たとえば『極上の憂鬱』において、『ねるとん紅鯨団』に言及した項がある。ねるとん紅鯨団がどんな番組であって、かつ、当時においてどのような文脈で受け入れられていたか…ということを読み取ることができる。ここが「ニセガイジン」フォーマットのちょっと面白いところだと思う。

エッセイというのは、同時代の何かの事象について描くとき、みんながある程度知っている前提、そして世間でどのように受け入れられているのかを前提で書かれることが多い。そのため、事象そのものについて詳しい説明は無く、書き手がどう感じたのか、ということを中心に描かれがちだ。そうすると、当時のことを知らない人にとっては、後世になればなるほど、解読が困難になってくる。

しかし、「ニセガイジン」という立場をとると、事象をよく知らないところから話を立てないといけないので、事象そのものの詳しい説明がまず述べられる。そのうえで、「ニセガイジン」として、周囲の日本人がそれをどう受け入れているか、という、かなり客観的な描写が必要になる。そしてそのうえで、「ニセガイジン」氏が、どのように考えたか、という話に発展することになる。

日本人がやるとくどくなりそうなところを、「ニセガイジン」フォーマットが中和してくれる。

同時代の空気やニュアンスを内包しつつ、後世でも「読める」エッセイというのはわりと貴重で、「ニセガイジン」というのは、ある意味、それに向いたフォーマットと言えるのかもしれない。あのポール・ボネも、思想が前面に出ると読んでられないけれど、当時の世相スケッチとしては、わりと面白く読めるのは、そういう部分なのだろう。