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若者の“もどかしさ” 劇団四季の『春のめざめ』を観劇してきた

CyberBuzzの案件で、劇団四季の『春のめざめ』を観劇してきた。劇団四季は過去に『ライオンキング』を1回見ただけれど、なんにせよ生の舞台は大好きなので、ペアのチケットを貰えた上に、blogに感想を好きに書け、なんて、なんちゅう嬉しいことなんでしょう、と思うわけです。ありがたいありがたい。CyberBuzzは、感想を率直にお書きください、というばかりで、肯定的に書けとかなんとか、一切言わないところが偉いと思います。


劇場四季は、浜松町に『春』『秋』、汐留に『海』の常打ちの劇場を持っているけれど、今回の『春のめざめ』は浜松町の『自由劇場』で行われる。客席数は500ほどで、大掛かりな舞台装置を駆使する大劇場ではない。だから、客席と舞台の距離が近いストリートプレイに近い芝居に使えるんだけれど、『春のめざめ』のミュージカルではあるけれど、ミュージカルをちょっと逸脱した舞台は、この劇場にぴったり合っていたと思う。
『春のめざめ』
さて、『春のめざめ』。19世紀末のドイツを舞台とした作品で、学校、家庭、生活の抑圧の中で葛藤する若者…というか、少年少女の姿を描いたミュージカル。ブロードウェイで上演されて、2007年のトニー賞で8部門を受賞した作品を、劇団四季が直輸入した舞台となっている。この『トニー賞で8部門』だけれど、主演男優賞、主演女優賞は獲得できていない、という点にご留意されたい。

舞台の幕が上がると、どうにもとっぽい感じのお姉ちゃん、はたまた、あまりにも台詞な生硬な台詞廻しのお兄ちゃん、そういうものに、一瞬、おいおい大丈夫なのか、と不安を掻き立てられる。たしかに劇団四季だし、歌はキチンと歌えるし、体もちゃんと動いてはいる、しかし…と思った時点で、多分、もう罠に嵌っているんだと思う。
さきほど、舞台の幕が上がると…と書いたが、舞台の幕は上がらないし、閉じもしない。最初から最後まであがりっぱなし。舞台転換は無く、効果的に、意味深に点灯する各種照明を背景にして、舞台上にあるのは、学校にあるような椅子と机ばかり。そして舞台両側には『ステージシート』と称して客席があり、観客が座っている。舞台上の椅子を出演者、6人の少年、5人の少女、そして2人の『大人』が自分達で適宜運んで舞台を作り、そして片付けて、ステージシートの観客と同化する。ステージの観客の中にアンサンブルの出演者が紛れ込み、歌を一緒に歌い上げる。メインの演者以外の部分で、巧みで気持ち良い舞台の流れを見ると、ああ、プロの仕事を見ている!と嬉しく思うのだけれど、さてメインの演者だ。
この舞台で扱われる、性のめざめ、自殺、教育問題、十代の妊娠、性的虐待、同性愛…そういうものは、舞台の置き所によっては、それこそ、謳い文句同様に『衝撃的』であったかもしれない。そして、今現在でも、あんまり親とかとは見にきたくねえよな、と思うのは確か。しかし、現在において、それらはケータイ小説のようなところでもはや陳腐になってしまったような題材。いくら舞台上でそれらを題材としようとも、自慰シーンがあるうとも、尻をほりだしての性交シーンがあろうとも、それ自体が別に衝撃的というほどのことではない。第一、舞台であろうとも、下北沢に行って御覧なさい、もっと今日的で刺激的な舞台はいくらでもある。
しかし、こうも言える。当時の抑圧的な社会背景の中では、それらは確かに衝撃的であった。今を生きる若い人たちにとっても、若者にとっての苦悩という意味において、その普遍的な意味は変わらない…。いやいや、この舞台を見るときに、そんなありきたりの規範意識でわかったふりをしてはいけない。この舞台で感じること、それはとにかく、身体表現レベルでの、どうしようもない、若者の“もどかしさ”だと思う。
そう、主演のお姉ちゃんは、田舎のおぼこ娘という風体で、いかにも華に欠ける。主演のお兄ちゃんは、中2病を抱えた優等生を上手く演じてはいるけれど、どうにも弾けない。やがて放校されて絶望する少年役は、その台詞まわしの生硬さにずっこける。歌の上手さ、垣間見える演技の上手さ、補佐する『大人』の男女、アンサンブル一体となった合唱の見事さ、生伴奏、舞台照明の美しさ、そういうものに助けられて舞台はつつがなく進行するのだけれど、しかし演技する若い役者たちに感じるもどかしさ…

そうだ、もどかしさだ。台詞を十分に弄しきれないもどかしさ、身体表現を十分にしきれないもどかしさ、歌で気持ちを十分に表現しきれないもどかしさ。このミュージカル、何事も無かったように歌を歌いながらストーリーが進行するミュージカルとは一味違う。ストリートプレイのように舞台は進行していき、その中で、懐からおもむろに取り出したマイク、舞台袖から唐突に取り出したマイクスタンド、そういうものを使って、若者たちは、まるでロックスターのように、内面を吐露する歌をシャウトする。そしてそれがまた、ああ、もどかしい!という感じで、上手いんだけど十分に上手くないんだ、これが。
己の気持ちを十分に表現できないもどかしさ、内面と表現、心と身体が一致しない、一致させることが出来ないもどかしさ、それを演出として表現している。そしてそのことにより、見ようによっては陳腐になりかねない『衝撃的』な話題が、もどかしさを感じる我々観客に、ダイレクトに己の問題として迫ってくる。そう、ケータイ小説を冷笑的に眺める私たちにとっての“陳腐”さも、己の身にそれらを引き当てたとき、どれもこれも身を切られるような、あなた自身の物語になるのではないか。
短い休憩を挟んで後半の舞台、その表現し切れなかった『もどかしさ』の感情が、どんどん高まっていき、爆発する!カタルシス!という展開をわたしは予想した。そしてそれは、概ね満たされたけれど、かならずしも満足するものではなかった。それは、オーディションで抜擢された若い演者たちの今後に期待、という部分でもあるし、カタルシスを簡単に感じさせてはやらないぞ、ということかもしれない。しかしとにかく、いろいろと欠点、改善点はありながらも、その“もどかしさ”という点において、をうまくやりやがったな、という舞台ではあった。面白かったよ。

個別では、モリッツ役の三雲肇が、後半に向かっての感情の高まりが素敵。そしてイルゼの金平真弥がねー、素晴らしいです、役にも恵まれているけど、いやほんと、素晴らしい。ゲオルグをやった白瀬英典が曲者で良かったです。
さて、今回、この舞台の宣伝の一環として、『CyberBuzz』まで活用している意味なんですけどね。劇団四季に対する意識って、まあ宝塚みたいに、あんなおばちゃんが追っ掛けているようなもん…ってのがあると思うんですよ。実際問題、リピーターで何回も同じ舞台に足を運んで、俳優の成長を一緒に…みたいな客も多いんでしょうね。今回の舞台については、そういう感覚で劇団四季を敬遠する人にも見て欲しいなあ、って意思があるんじゃないかな、と。
劇団四季の、おおさすがにプロの仕事だぜ!ってのを体感するなら、たしかに『ライオンキング』を見るのもいいと思いますが、今回の『春のめざめ』は、斬新な演出や舞台照明などを体感しつつ、プロの仕事を見らるって意味で、なかなかのもんじゃないでしょうか、とは思うのでした。
『春のめざめ』
※舞台写真は、CyberBuzzより提供を受けたものです