日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

思索しない日々に

自分が暮らしたわけでもない無い農村や里山に、なんらかのノスタルジィを感じる心情というのが、自分のなかにある。単純に「いいなあ、憧れるなあ」ということではない。本気で暮らしたいとも思わない。しかし、その風景に対して自分が、何故か負目のようなものを背負っている感覚。
私は26歳で、東浩紀に言わせるならば「動物化」した世代の人間であるけれど、その私が教養の人々、概念の城を作り上げることを厭わない人々、「動物化」する以前の人々に対して抱く意識というのは、この手のノスタルジィに近いものかもしれない。つまり、本質的にそうなりたいわけでは無いのだけれども、無意識の負目を背負ってしまっている、ということ。
では自分が、思索のレベルにおいてはまったく止揚されていなくとも、おばあちゃんの知恵袋的な生活哲学に溢れているかと言うと、そんな明確な足場など持っていない。地に足をつけているわけではない。断片化された知識の切れ端を萌えの対象として愛でたり、小さな事実の積み上げで世界が構築できると思ったりすること。私がしているのはそんなことだけだ。
大状況を語る術も力も無く、状況を受け入れた上で、土と共に地に足をつけて生きることも適わないのだ。
さてどうするか。