日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

改めて 強烈な臭いはそれらを無意味に遠ざけていないか

http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20051031#1130741422
昨日、若者の人間力を高めたり高めなかったりする運動について、自分が感じてる違和感などを書いた。これは、どうもお互いの論点のズレとか、横合いから殴りつけるようなチャカシが入ることによる議論の混乱が見られたので、そのあたりを整理した上で何か言えないだろうか、と思ったからだった。だけど、自分の混乱した文章のせいで、ますます、論点がずれてわけのわからないことになってしまった。


で、改めて。自分が言いたかった部分がどこにあるか考えてみる。


私は以前から時々、レフトウィング特有の臭いのようなものを批判する態度をとってきた。そして繰り返し考えていることは、特有の運動臭が却っていろんなものを遠ざけてしまっているのでは、という反発だった。


私が大学生の時、自分の学部には自治会があった。ゼミに関する情報共有だとか、有用な活動もしていたんだけど、某セクトの影響力が強すぎて、自治会に入るということは即ちそのセクトの政治活動に身を投じることと同義だった。そして、不透明な資金の流れとかいろいろ問題があって、結局、大学当局に潰されて非公認組織になってしまった。
それ以来、自治会は消滅し、大学構内の公共スペースの扱いとか、例えば喫煙の扱いとか、教授の生徒からの評価とか、学生側から大学に組織立ってアプローチする手段は極めて手薄になってしまった。
私があるサブゼミのなかで、自治会の存在意義、みたいな話をしだしたら、まるでセクトの一員じゃないか、オルグしにきたんじゃないか、という目で見られて、つまり学生のなかには自治会=政治活動=某セクト、という意識が強固に刷り込まれていたのだ。
結果的に、彼らのやっていたことは、組み合い潰し、第二組合と一緒だったのではないかと思う。いや、彼らの側に学生生活の向上なんて意識は全く無く、政治活動だけがすべてだったのだとしたら、大学側との闘争に敗れたという認識があるだけで、結果的に自治活動を妨げたことなど、どうでもいいのかもしれないが…


たとえば会社の組合にしても、労働環境の改善や労働者の生活向上が一つの会社内で解決できない問題であった場合、政治という手段を使うのは当然の帰結になる。だけれども、その政治活動職が強くなりすぎると、組合活動イコール政治活動となってしまう、政治の比重が重くなりすぎてしまって敬遠されるようになる。そうすると、ますます運動が先鋭化する…というイメージを、私は持ってしまっている。
これは日垣隆が言っていたことなんだけど、「自分が組合に期待したことは職場環境の改善であり、たとえば机の大きさを倍にしたいと考えたが、一笑に付されて誰も取り合わなかった」なんて話もある。つまり、地に足をつけていない、或いはつけていないイメージを持たれている。


今回のPAFFについては、最終弁当先生が言っているような「あんたら、働きたくないとかいいつつ、結局別の『人間力』に縛られている姿はどうなのよ」ということへの同感も一部ある。そして、その姿と、働きたくない、という姿勢の齟齬についての疑問もある。昨日のエントリでは、そのあたりを読み解くために、だめ連を持ち出して考えてみたりした。
んだけれど、私が真に言いたかったのは*1、そのことよりも、PAFFが目指すものとして描く「明るい社会建設」な牧歌的人間力訴求と、古い労働運動のイメージがあんまり合致しすぎてしまっていて、その臭いが本当に結集させたい層を遠ざけてしまっているのではないか、と言うことだったのだ。


団結がんばろー、と拳を握ったり、アジビラを撒くことそのものが、すなわちセクトだ!とか政治活動だ!と言うわけではない。つまり、私のイメージの問題なわけで、私の先入観が悪い、と言われれば、まったくその通りなのだ。だけれども、古い労働組合やレフトウィングのイメージ、活動方法をそのまま、ほんとうにそのまま踏襲している姿を見ていると…。
なんでも「10.31 なんとか行動」とか言ってみたり、独特の書体でアジビラ作ってみたり、レクと言っちゃあ肩組んで歌ったり*2…。その姿が、私にいろんなものをイメージさせて止まない。そして、そのようなイメージが多くの人間を遠ざけていることが現実だ。*3


古い人間を排除すれば、こういうあり方とも縁を切れるんだろうか。確かに、若い衆の連帯から発する、自立的な運動は、理想的ではある。だけど、その先には、小林よしのりが「脱正義論」で描いたような、結果的に運動が日常になり、特定セクトに取り込まれていく姿があるのではないか。労働運動の古強者が持つような足腰の強さも必要なのではないか。あんまり関係ない話に飛ぶけれど、先日六本木ヒルズで暴れた大塚英志のような物件を見るにつけ、こういう足腰の強さには年の功も欠かせないんじゃないかしら、と思うのだ(http://chiruda.cocolog-nifty.com/atahualpa/2005/10/post_c459.html参照)
昨日、コメントしてくれた方の

こういう労働運動はかなり上の世代がやってると思うんだけど、彼らのノウハウと蓄積された情報、海外とのネットワークはすごく貴重だからね

という意見もなるほどもっともであると思うし。有用なものは活かさない手は無いだろう。だけれども、結局、このような運動の担い手が「かなり上の世代」だけに絞られてしまっているために、いつまでも古いイメージを引き摺ったままになってしまって、いろんなものを遠ざけてしまってるように思うのだ。


だから、「サニーサイドアップに応援してもらって」は冗談だけれども強ち冗談ではない。彼らの脇の甘さやと不透明さは批判されるべきだし、今に至っていろんな綻びを見せているのは痛々しいし、ホワイトバンド運動が最終的に目指す方向についても私は賛同できない。
だけれど、百戦錬磨の広告屋の連中が、運動を一種のファッションという形で提供して、社会的にしっかりムーブメントを起こして、しかもそれできっちり金を儲けてしまった、というサニーサイドアップの鮮やかさには賞賛を送りたいし、さまざまな運動の担い手が、これに見習うところは多いんじゃないかと思う。まんまトレースせよ、と言っているわけではない。学ぶべきも多いよ、という話だ。


その運動が最終的に目指すところが何であるか、それによって私は賛成の立場もとるだろうし、反対の立場もとるだろう。だけれど、非正規被雇用者の連帯、組合のようなものは必要であると考えるし、できるからにはなるべく是々非々で広いネットワークを持って欲しい。応援したい。だからこそ、そのイメージそのものが遠ざけている状態から脱却できないものか、と常に思っている。


追記:昨日、こんなことがコメント欄で書いた方がいた

妨げることはないと思うよ。ただ人が集まらないだけで。

妨げるとしたら、こういうのを早いうちにつぶしておこうとレッテル貼りするような動きだと思うよ。他の、もっと今の時代にあった運動を立ち上げようとしてもレッテル貼りされていれば腰が引ける。

レッテル貼りせずに見守って、運動が素敵な方向に向かうことが期待できるのならばいいけれど…。
ネットには脊髄の反応が溢れていて、「労働組合」と見るや「真っ赤だ!」とか、バックにいる組織を発見して全否定したりとか、とにかく脊髄の反応が溢れている。そして実際問題、その脊髄反応まんまの醜態を晒す組織が多い(すべてとは言わない)こともまた現実。その中で、レッテル貼りする勢力を批判しても、結局、罵りあいにしかならないのではないか。有効な闘い方なのかどうか…よくわからない。

*1:昨日の混乱したエントリからそれは読み取れないですね、すいません

*2:まあ、これは、さすがに桃岩荘にでも行かないと見られない昭和遺産だと思うけど

*3:その組織そのものから遠ざけているだけなのか、あるいは労働運動全体から遠ざけさせてしまっているかは、なんともいえない。昨日のコメント欄参照