日毎に敵と懶惰に戦う

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「生の芸術 アール・ブリュット」展

降霊したり、分裂症だったり…という複雑な状況の皆さんがモノした芸術。しかし、その状況とは一切関係無しに、作品のエネルギーというか、発想の飛び方と言うか、直接にも間接にも筆圧がものすごい作品群。しりあがり寿?みたいなのもありましたが。
途中までは
だけどね、日本の「松本国三」氏の作品を見た時に、考えてしまったのですよ。この作品はカレンダーに歪んだ文字がびっしり書かれたもの。それを見ていると、言っちゃあ悪いんだけど、なんと言うかな、「電波チラシにしちゃあ、曲解できるほどの意味も取れないし、三井理峯先生や目黒の湊さんに比べればまだまだだな…」という…。詳しくは根本敬の『電波系』読んでくださいね。そういうことを考えてしまった。
私は、この松本国三氏の作品を見るまでは、他の作品をみつつ、いやあ、凄い作品だ、作品と本人の人格は切り離して考えて凄い作品だ、と。精神的に問題がある人だからこそこのような作品が書ける、みたいな態度は良くないよな、「精神に異常があるからピュアなんだ」みたいな態度はまっぴらだ、と思ってたわけです。
だけどね、例えば三井先生や湊先生の作品は、本人の生き様と切り離しても大変に凄い。しかし、例えば三井先生のように、選挙に立候補して世間様に訴える、とか、湊さんのように、銀行で静かに行列した後、自分の番が来るとチラシを手渡して帰ってくる。こういう生き様そのものがアートだとも言えるわけで。現代美術の人のインスタレーションに比べても、極めてレベルの高い芸術、芸能であると。*1
いやいや、彼等には創作の意思は無いから芸術では無い?それを言ってしまうと、アール・ブリュットの人達も止むに止まれぬ精神の発露として作品を書いて、例えばそれが抽象的な作品として仕上がっている人たちが多いようであり、いわば精神表現の一形態が芸術の形をとったわけで、まあ、似たようなもんであると思うのです。
綺麗ごと言っても、アウトサイダー・アートだろうがアール・ブリュットだろうが、集合名を決めてしまった時点でレッテル貼りであり、そのレッテル貼りがいけない、ということではなく、レッテルを貼っているという現状をよく認識した上で、その人の人生込みで作品として受け入れるも、本人の人格と切り離して作品を受け入れるも、それは受け取り手の自由だと思うのです。
その上で。いや、このアール・ブリュット展は凄い。凄い。是非見にいくべき。こんな迫力と言うか、鬼気迫る作品はそうは見れません。

*1:こういう、意図せざるところで成り立つ芸能を、私は以前、限界芸能と名付けたりしたんですが…まあ、それはともかく