日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

ホワイトバンド総括

ホワイトバンド問題というのもいくつも乗り越えなければいけないハードルがあって、最初に

アフリカの貧しい子供たちを救わなくちゃ!ヒデもつけててカッコイイし…

という素朴な善意がある。それに対して

ほとんどが流通費や製造費、活動費に流れて、一円も寄付されていないんだって!

という反発があり、ここで「サニーサイドアップは詐欺」だの「サヨクNPOの奴等の資金源になって…」「中国を儲けさせているだけ?」的な質の低い祭りがあったりするわけだが、これに対しては

もともと寄付を目的としてはいない。趣旨をよく読まないで反発する馬鹿がいる。

という批判がある。もちろん、ホワイトバンド運動側の、その部分の主張のわかりにくさ(寄付だと誤解してしまう)について、批判は当然出てくる。そして

貧困問題をみんなで考えるきっかけになればいいよね。

という「前向き」な姿勢での昇華もあるわけだけど、(このあたりで終わっている議論も多い)

サニーサイドアップは商売上手だ

という商売の視点もあり。そもそも、慈善事業だから儲けちゃいけない、って理屈は無いと思うんだが。説明責任は果たさないといけないけど。あるいは

日本じゃなくて、欧州のホワイトバンドを買うよ。あっちはもっと安いし、ちゃんとしている

という態度を取る人もいる。ここで運動の本質に立ち戻ると

これの目的はアフリカに対する債権放棄を訴えて、政府の政策を変えさせることが目的なんだよ

ということになって、ここで議論が転がるわけだけど、

アフリカのことは旧宗主国に任せておいて、日本はもっとアジアに注視すべきでは?

というのも有り得るが、

この運動をはじめたイギリスはODAの債権残高が1000万ドル、日本は120億ドル。日本ばっかり負担することになるじゃないか。おまえらそれを負担する気があるのか。イギリスやフランスがアフリカにしたことを考えれば、あいつらが面倒見るのは当然。日本を巻き込むなよ

という方向に進む。さらに進めて、日本の損得というより

債権放棄というのは本質的にアフリカの貧困を救うことにはならない。たかり根性を助長するだけ

という議論、そして

イギリスの対アフリカの武器輸出は年間18億ドル。対外債務を放棄しても武器を買うだけ。相変わらず内戦が続いて、貧困問題はちっとも解消されない

という提起があり、2chあたりでは一般的な議論。ここで、

先進国は途上国を搾取している!フェアトレードフェアトレード!ジュビリー2000!ジュビリー2000!

みたいな先鋭的な運動家が出てきたりする一方で、

イギリスの年間対アフリカODAは15億ドル、日本は5億ドル。おまえら、その1000万ドルだの90億ドルだの、どっから資料をひっぱってきてるんだ。これだから2ch脳blog脳google脳は怖いねー

なんて突っ込みが入って、ネットリテラシー論に横滑りしたりするが、しかしそれは年間ODA額(無償含む)と貧困国に対する債権残高はとりあえず別の話。とはいえ、無償援助と有償援助についての議論や、日本のODAが近年急減していることについての議論が、ここから広がったりして

そもそも、日本のODAは紐付きだ、有償ばかりだと批判されるけど、貧困問題を解消するために無償援助(ばらまき)は緊急措置であるべきで、長期的な視点では有償によるインフラ整備、技術支援をやるべき

なんて、ODA論、支援論が盛り上がったりする。まあ、ここで、「日本は終戦直後、海外からどれだけの支援を受けたと思ってるんだ」みたいな話も出てきたりするんだけど。これも、あれは有償だったんだ、とかなんとか議論になる。で、武器の輸出で内戦が…的な方向では

イギリスが武器を売りたいから、ってのは穿ちすぎ、陰謀論に近い。まあ、先進国が債権放棄した上で武器を売らなかったとしても、結局はカラシニコフが主役になるだけなんだけど

という視点もある。

それぞれの人が、このあたりのどこかで引っかかって盛り上がっていたり自己満足していたり怒っていたりするので、どうにも方向性がまとまらないのだろう。

私は

アフリカの貧困をみんなで考えよう!

という素朴な視点には異議を唱えるものではないし、きっかけを「かっこよさ」に求めることも、運動の方向として間違っていないと思う。運動の方法論って大事だよ。
ホワイトバンドを買う、ホワイトバンドをつけるという行為が、普段は考えるだけで行動しない人にとって、「行動すること」のきっかけになればいいんじゃないかな、とは思う。紐つけて満足するのは最悪だけどね。
あとは、ホワイトバンドを買った人が、買った後だったとしても、この運動の趣旨を正しく理解して(運動への賛否はどちらだったとしても)、アフリカの債務状況、貧困状況について正しい知識を(ぐちゃぐちゃとした国際政治状況を含めて)得ることができればいいんだけど…それは難しいことなんだろうかなあ
善意は悪意よりもひどい状況を生み出す、ってことは理解してるつもりだけど、ね

思索しない日々に

自分が暮らしたわけでもない無い農村や里山に、なんらかのノスタルジィを感じる心情というのが、自分のなかにある。単純に「いいなあ、憧れるなあ」ということではない。本気で暮らしたいとも思わない。しかし、その風景に対して自分が、何故か負目のようなものを背負っている感覚。
私は26歳で、東浩紀に言わせるならば「動物化」した世代の人間であるけれど、その私が教養の人々、概念の城を作り上げることを厭わない人々、「動物化」する以前の人々に対して抱く意識というのは、この手のノスタルジィに近いものかもしれない。つまり、本質的にそうなりたいわけでは無いのだけれども、無意識の負目を背負ってしまっている、ということ。
では自分が、思索のレベルにおいてはまったく止揚されていなくとも、おばあちゃんの知恵袋的な生活哲学に溢れているかと言うと、そんな明確な足場など持っていない。地に足をつけているわけではない。断片化された知識の切れ端を萌えの対象として愛でたり、小さな事実の積み上げで世界が構築できると思ったりすること。私がしているのはそんなことだけだ。
大状況を語る術も力も無く、状況を受け入れた上で、土と共に地に足をつけて生きることも適わないのだ。
さてどうするか。