日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

最近読んだ本

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)
これは社会学の本ではなく、マーケティングの本だ。なぜなら、そこにあるのは「理解」ではなく「納得」だから。著者の三浦展氏はもともとシンクタンク、広告の人だから、それはむべなるかな、ではある。しかし、本来の社会学者だあるところの山田昌弘先生にも、同じような「社会学」ならぬ「マーケティング」の匂いがするんですけどね。
文章はスッと理解できて読みやすい。というか、はじめからきちんと、理解させようとして書いている、というべきか。
日本の郊外住宅地の問題点も、結局は「アメリカの20年遅れ」なのだ、ということが良くわかる。アメリカが暮らしの夢を郊外に見出し、夢を実現し、そして疑問を持ち、夢が破れていく様の解説が特に秀逸。しかし、夢破れた日本の郊外への対向として、高円寺を持ち上げるだけ持ち上げて終り、というのはどうかと思った。もともと別の目的で書いた文章を後からくっ付けたからだとは思うのだけれど。
ただ、この人の本は、近著の「ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)」もそうなんだけど、「理に落ち」過ぎていて、分かりやすすぎる。かつそれは寸分たがわぬ論理的詰めによって結論が導かれているわけではなく、ある程度の統計的証拠を見せた上で、多くの人が納得しやすい方向に結論を導いている、という印象を受ける。
その意味において、この本は「理解ではなく納得の本」なのではないかと思う。
本来、極めて複雑な、因果関係があるような無いような無数の事象について述べたいとする。そこで論理的一貫性や文脈を維持しようとすると、本来は関係が無いかもしれない無茶な一本線を、物事同士の間に無理やり引いていることになりかねない。
そんなこんなで、あえて文脈を維持しないという種類の発言を筒井康隆がしていたと思うけど*1、それはそれで非常に誠実な態度だと思う。文脈は人によって求められているけど、実際問題、大抵の物事に文脈なんて無いのじゃないのかしらん。
ここで、実は、昨日書いた宝くじの話が思い出されるわけで。一本の論理的線を引っ張る行為は、宝くじの因果関係を求める作業とどこが違うのだろう、という話。

ただし、相対化するのは間違いだと私のなかの小人さんが言っているし、そもそも、科学的態度って観察された事象から論理を構築して実験を繰り返して証明していくことのはずだから、否定しちゃまずいんだろうね。
あー、でも、実験できないところが、宝くじと社会学の共通点か?よくわからなくなってきたので、続きは明日だ。

*1:蓮実重彦だったかな?