日毎に敵と懶惰に戦う

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あだ名で呼ぶことと、人間関係へのフリーライド

http://d.hatena.ne.jp/hisamura75/20070918/p1
少なくとも、Claudiaさんに日記で“御大”って書かれたのは自分だけでしたので、念のため申しておきますが、不快感とか気にしている、ということはまったくありません。それは、私が、あだ名とかニックネームで呼ばれるということ自体に不快感を覚えないということがまず理由の一つ。
そして、おそらくこちらがもっと大事なこと。その呼び方には、プラスの意味がある一方で、ある種の揶揄的な意味合いもあるような気はします。しかしその呼び名は、私と、それを付けた人、それで呼ぶ人との間で、一定のコミュニケーションを取り合った後に、ある一定の理解、了解があって付けられたものです。だからその呼び名を受け入れることが出来ますし、関係をより発展させるための潤滑油にもなり得る。それに違和感を感じるようになったら、それを変えることもできる。
だので、私は奈々子さんのようにあだ名やニックネーム全般に対する不快感というものは感じない人間ではあるし、“名前以外で呼ぶことはとっても暴力”とも思わないけれど、“他人がつけたあだ名、ニックネームの類は全否定します”ということ、および、コメント欄でbrownzさんの言う“個人対個人の関係が大きく関わってくるので”というのは理解できる。
例えば、私のことをよく知らない人が、ある特定の場所で私が“御大”と呼ばれているのを知って、どこかで私のことを“御大”と言っているとしたら。不快感や気にする、というほどのことはありませんが、若干の違和感は感じるかもしれない。
もっと言えば。小学校や中学、高校での知り合いと久方ぶりに再開すると、昔のあだ名で呼ばれることがあります。あだ名というのは、その時々のまったき人間関係に依存するものであり、そのあだ名で呼ばれると、当時の関係を思い出します。懐かしいです。時間を経てお互いが変化しているのですから、おそらく、今そのあだ名で呼ばれることは不適当であるでしょう。しかし、当時の関係性の確認でもあるから、それはそれで構わない。だけど、それを知った別の(当時の人間関係を良く知らない)人がそのあだ名で私を呼んだら、それはかなり、はっきりとした違和感が浮かび上がってくる。
人が付けた誰かのあだ名を、その付けられた人を良く知らないまま使うというのは、ある意味、付けた人と付けられた人が作り上げた人間関係にただ乗りする行為である。そのあだ名の人と、真摯に一から人間関係を構築するつもりがありません、という意思表明にもなり得てしまうのかな、とは思います。そのあだ名としての振る舞いを強要されている感、も出てくるかもしれない。小学校の時のあだ名は、わりとそういうあだ名でした。


brownzさんの“部長”は、先日もちょっと話しましたが、もう、そういう振る舞い云々を超越してしまって、あまり意味の無い記号化してしまったものなのかしらん、という感じ使ってしまっておりました。人間関係へのフリーライドと呼び名の記号化、どっちが失礼なのかわかりませんが(後者の方が失礼なような気もしてきました)、ご本人に違和感があるのなら、あまり使わないようにしたいです。

追記

いずれにしろ、私は、あだ名で呼んでもらえるというのは、自分に対して何らかの興味、関心を持ってくれているのだな、と認識しますので、悪意の塊ようなモノ以外は概ね歓迎しています。
しかしながら、それに不快感をもつ人がいるということ、相手がその不快感を持つ人であるかもしれないことについては、もっと心がけたいと思いました。