日毎に敵と懶惰に戦う

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小野田さんの演説に考える

参道の中ほどで行われている追悼集会では、丁度小野田寛郎さんが演説をしているところだった。最後のほうしか聞かなかったが、「小泉首相が『心ならずも…』というのは承服できない。みな、国を護るために必死で戦ったのだから」ということを力説し、おおいに拍手がおきていた。

そりゃあ、そうだろう。心情は理解できる。国の為、家族の為、と戦場に征き*1、戦死したのに、当時の思慮の足りない指導者のせいで『心ならずも』戦場に行かせてごめんね、あんたのやったことは侵略で、あんたは悪いことをして、あんたの死は言わば犬死ですよ、と言われたのでは、じゃあ俺は何のために戦場に行ったの、ということになるだろう。
ここが、昔から自分の中で解決されない部分であった。高校生の頃の自分は、いや、それは犬死なんだ、誇りとかアイデンティティとか言い出すから戦争なんか起きるんだ、と考えていた。歴史や戦争というものに無知だったから。今はどうか。彼らの言うことを全面的に鵜呑みにも出来ない。自分の過去に価値が無かった、なんて誰にも思いたくないから「自衛戦争でした」「侵略ではない」「国を護るために戦った」と思い込みたいのは?という思いもある。
そのあたりをひっくるめたところで、私が今日、ここに来ている理由と言うのは、それは科学としての歴史とは無関係なところで、戦争で亡くなった人たちに哀悼の意をささげる、功罪ありながらも国の歴史に関わってきた人たちに追悼の意を捧げる、という心情の発露が一点。それから、自分のなかの、先の問題についてもう少し考えてみたい、というのが一点。無論、野次馬根性が先に立ったことは抗いがたい事実だが。
さて、そこで改めて公式参拝の件など。所謂「A級戦犯」の合祀そのものを疑問視する、ということでは無い。それよりは、合祀された経緯を含む政治性に対する疑念、そしてしかし、その靖国神社は私的な一宗教法人に過ぎない、という捩れ、このあたりにおいて、靖国神社への公式参拝と言うのは突っ込みどころが多いんじゃないか、と思わずにはいられない。
そしてその疑義の向かう先が、「新しい政府主導による追悼施設を」となるのか「靖国神社に政治的な意味を負わせないで欲しい」となるのか。初めから政治的な意味を帯びている靖国神社から政治性を排除するのは無理だよ、とも思うし。
「首相の公式参拝」と言うからには、それは外交的なメッセージを含まざるを得ず、海外からどう見られるかは関係無しに…などと言うわけにもいかないのではないか。だから、それによって日本の政治的メッセージをはっきりさせる、と主張するならまだ意味のあることだし、議論の余地もあることだが、少なくとも、科学としての歴史とは無縁なところで、日本人の伝統的な宗教観云々、で公式参拝を主張することには無理があるのでは、と考えている。

*1:行きたくないけれど行った人も多いだろう。あるいは、両方の心理がない交ぜの人も多いだろう。それぞれどれくらいの数がそうだったか、は私には解らない