日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

大峰山の件、少し

ワタクシ的には、いまさら女人禁制でもあるまいし…というのか個人的意見です。おそらく、大峰山の側としても、女人禁制の必然性…必然性と言う言葉に引っ掛かりがあるなら、女人禁制であることによる大峰山のメリット、と言ってもいい。それはほぼ失われているはずです。しかし、それと、あのひとたちがやったことにもろ手を上げて賛成するのはまったく別のことです。
あの人達がやったことは、つまりネット上で言うなれば、「マターリヲチしる!突撃厨イクナイ!」と言われるようなことです。突撃厨イクナイ!
今回、私が1番感銘を受けたのは次の方の意見です
http://d.hatena.ne.jp/koshy/20051111
民主主義の文法はひとつだけではありません。我々は、「民主主義」という大上段に振りかぶった論理を振りまわす時、あるいは振りまわされた時、規定通りの文法を想定してしまいがちです。では、我々が最近「それ」と認識した文法を導入しなければ、民意の反映が不可能なのか?
強圧的なだけの団体は持ちません。一見、我々の文法から見て、強圧的で封建的に見えない組織運営においても、民意を反映するための方法はきちんと持ち合わせています。ただ、我々がいま注視している方法とは文法が違うので、我々はそれが単なる押し付けの封建制にしか見えない。しかし、そこには確かに、民意を反映するための回路がある。我々には見えないところで。それを持っていない組織、風土が長年保つでしょうか?いえ、持ちません。伝統ってそういうものです。伝統だから貴いんじゃない。貴いから伝統なのです。
それを否定するのでしょうか。それは時間のかかることかもしれない。女人禁制が非合理的なことなのだとすれば、時間をかけて民意が反映される回路が働きます。しかし、「彼等」が、それを無視して自分たちの文法を押し付けようとすることは暴力です。彼等は、自分たちが「民意を反映しない仕組みを否定している」と思いこんでいる。しかし、違うのです。彼等がやっていることは、「民意を反映するもっと冴え(ているかもしれない)方法を否定する」ことです。そのことに気が付いたほうが良い。それに気がついていない。
どちらが優れているか、は分からない。というか、ここでそれは議論すべき問題ではない。しかし、乗り込んでいったほうが、まずは相手を尊重するのが筋なんじゃないでしょうか。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html