日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

迷子

7時起床、電車で会社へ。同じ島の人がある問題で大勢九州へ行ってしまっていたり、まだ年休を取っていたりで、電話やら細かい用事やら見積もりの依頼だの全部まわってきてなんだか落ち着かず。それでもちゃっちゃと片付けて6時に出て、昨日会社に乗り捨てていた自転車で帰宅。プールで泳いで帰ろう。
今日も天気がいい。冬は空気が澄んで遠くが良く見えるから好き。途中、みなとみらい方面がよく見えるので脇道に入ってみると、畑の中の道路のようで、街灯も無い真っ暗な道。おもしろがっていろいろ写真を撮ったり、自転車でごろごろ進んだり。
だんだん進むうち、右に行っても行き止まり、左に行っても行き止まり、元の道は坂道だから戻る気にもなれず、だんだん進むうちに泥沼にはまってくる。農道なので標識など望むべくも無く。地図も手元に無く。畑の中に民家がぽつぽつあるだけで街灯もなく、月明かりたよりでうろうろする。
港北ニュータウンは、もともと畑ばかりの場所に農家が点在し、地勢に沿ってくねくねまがりくねった細い幹線が何本か通っており、行き止まりの多い農道や路地がうねっているところに、地勢を無視して開発のための太い道路が通ったため、知らずに脇道に迷い込むと、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、まったく理解できなくなる。
時々通る抜け道利用的な自動車を追跡して、なんとか交通量の多い幹線に出るが、それでも相変わらず標識は少なく、まがりくねった道路で方向感覚も狂うため、どちらにむかえばいいのかわからず。なんとか適当に進むと見知った場所に出て一安心。おお、近道かも!と喜んでみるが、時計を良く見ると普段の倍以上の時間がかかっていて近道でもなんともなく。プールに行く気力ももはや無く、帰宅。

『希望格差社会』読みました。

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く。努力して報われる層と、努力しても報われる見込みの無い、希望を持てない層での格差、という話。いわゆる「負け組」の発生そのものが問題なのではなく、「勝ち組」との格差を受け入れて自分なりに頑張れる社会構造が崩壊している、という問題。
ここで、三浦朱門が斉藤貴男の取材に対して発言したとされる*1言葉をひいてみる。

「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。(以下略)」

「百人に一人」のほうは、きっかけさえ与えれば頑張るでしょうし、教育のための場所を「用意」すれば、むこうから勝手に競争してやってくるはずです。問題は「限りなくできない非才、無才」の人に「実直な精神を養」ってもらうにしても、いくら実直に生きても、パンしか保障されない(生活の向上や安定の見通しが立たない)ような暮らしでは明日への希望を持って努力しようとなんか思わない。実直な精神なんて持てない。そういう社会構造になっちゃったのが大きな問題なわけで*2
誰もが「百人に一人」になって社会の中心になれるわけじゃない。チャールズ皇太子の発言は、皇族としては不用意だけど、極めて正しい。

多くの人が実際の能力以上のことができると思い違いをしている。誰でも、ポップスター、高裁判事、有能なテレビ司会者になれるかのように教師が教えているからだ。

誰でもNO.1になったり、あるいは最近ならonlyoneになったり出来ると、学校では教えられる。また、親はそれを期待して教育投資をする。親よりも成功することを期待する(ほとんどの親は、教育によって自分の親よりも良い仕事や地位名誉や生活を得ているから)。そして、それが満たされなかったら、チャンスを掴まなかったからだ、努力不足だからだと結論付けられる。しかし、実際には誰でも地位や名誉が得られるわけじゃない。特に最近は、一部の「勝ち組」から漏れ落ちるとまともな生活設計すらできなくなりつつある。高度成長期のような、誰でもが生活が向上していくという「希望」もない。努力しても報われない。でも、何にでもなれるのだ自分の教育や夢に見合った職につくのだ、と希求したまま、いつまでもフリーター生活を続ける、自暴自棄になる、引きこもる、犯罪に走る…。
学校的な「希望」と、実際の社会における「希望」にとんでもない差が出てしまっている。この2つの「希望」の「格差」が、この本の表題であるところの「格差」とは意味が違うけど、この本で述べられているもう一つの重要な格差であるわけで。じゃあ、どうするか。
社会構造はすでに変化してしまっている以上、今更ラダイト運動やっても無意味だし、年功序列型社会に戻しましょう、っていっても有能な人間は海外に逃げる。そうである以上、ある程度の格差が生じるのは受け入れたうえで、それを受け入れやすい教育を学校でしましょう、「納得」のメカニズムを再構築しましょう、そして、いったん漏れ落ちると未来への希望のないフリーター生活、最低生活保護、という悲惨な状況ではなく、努力によって段階的にある程度は成功が得られる、という「希望」が持てる社会にしましょう、というのが山田昌弘が提唱する解決案なわけです。
この人は社会学者にしては大雑把な言葉の使い方が多いように思うし、断定的にどんどん論を進めてしまうのでどうかと思う点もいくつか。言うことに身も蓋もないし。しかし、いろいろ考えさせてくれる本ではあった。

*1:じつは本当にそう発言したのかも疑問だし、この発言が、それを否定的に捉える人にしか引用されていない現状が、ますます疑いの度を強めさせるのだが。詳しくは愛・蔵太さんのこれ

*2:ここで、実直な精神への拠所を「素晴らしい我が国家への帰属、愛国心」に求めさせよう、というのが最近の教育基本法改正の動きに繋がるわけで。教育は所詮国家のためのものであって、我々はそこで羊を被って虎視眈々と爪を研げば良いのだから、今言われている改革自体には反対じゃない。でも、上のような理由での改正だとして、それは成功しないだろう

人の意見を聞いたとき

「どう思う?」→「ここと、ここがダメだから駄目だと思う」

「どう思う?」→「ここと、ここがイイから良い案だ。だけど、こことここに欠点がある。それを修正したこういう案はどうだろう」

後者のように答えられるようになりたいね‥

「どう思う?」→「ここと、ここがイイから良い案だと思う」

これは個人的に性に合わないのでね