日毎に敵と懶惰に戦う

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『希望格差社会』読みました。

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く。努力して報われる層と、努力しても報われる見込みの無い、希望を持てない層での格差、という話。いわゆる「負け組」の発生そのものが問題なのではなく、「勝ち組」との格差を受け入れて自分なりに頑張れる社会構造が崩壊している、という問題。
ここで、三浦朱門が斉藤貴男の取材に対して発言したとされる*1言葉をひいてみる。

「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。(以下略)」

「百人に一人」のほうは、きっかけさえ与えれば頑張るでしょうし、教育のための場所を「用意」すれば、むこうから勝手に競争してやってくるはずです。問題は「限りなくできない非才、無才」の人に「実直な精神を養」ってもらうにしても、いくら実直に生きても、パンしか保障されない(生活の向上や安定の見通しが立たない)ような暮らしでは明日への希望を持って努力しようとなんか思わない。実直な精神なんて持てない。そういう社会構造になっちゃったのが大きな問題なわけで*2
誰もが「百人に一人」になって社会の中心になれるわけじゃない。チャールズ皇太子の発言は、皇族としては不用意だけど、極めて正しい。

多くの人が実際の能力以上のことができると思い違いをしている。誰でも、ポップスター、高裁判事、有能なテレビ司会者になれるかのように教師が教えているからだ。

誰でもNO.1になったり、あるいは最近ならonlyoneになったり出来ると、学校では教えられる。また、親はそれを期待して教育投資をする。親よりも成功することを期待する(ほとんどの親は、教育によって自分の親よりも良い仕事や地位名誉や生活を得ているから)。そして、それが満たされなかったら、チャンスを掴まなかったからだ、努力不足だからだと結論付けられる。しかし、実際には誰でも地位や名誉が得られるわけじゃない。特に最近は、一部の「勝ち組」から漏れ落ちるとまともな生活設計すらできなくなりつつある。高度成長期のような、誰でもが生活が向上していくという「希望」もない。努力しても報われない。でも、何にでもなれるのだ自分の教育や夢に見合った職につくのだ、と希求したまま、いつまでもフリーター生活を続ける、自暴自棄になる、引きこもる、犯罪に走る…。
学校的な「希望」と、実際の社会における「希望」にとんでもない差が出てしまっている。この2つの「希望」の「格差」が、この本の表題であるところの「格差」とは意味が違うけど、この本で述べられているもう一つの重要な格差であるわけで。じゃあ、どうするか。
社会構造はすでに変化してしまっている以上、今更ラダイト運動やっても無意味だし、年功序列型社会に戻しましょう、っていっても有能な人間は海外に逃げる。そうである以上、ある程度の格差が生じるのは受け入れたうえで、それを受け入れやすい教育を学校でしましょう、「納得」のメカニズムを再構築しましょう、そして、いったん漏れ落ちると未来への希望のないフリーター生活、最低生活保護、という悲惨な状況ではなく、努力によって段階的にある程度は成功が得られる、という「希望」が持てる社会にしましょう、というのが山田昌弘が提唱する解決案なわけです。
この人は社会学者にしては大雑把な言葉の使い方が多いように思うし、断定的にどんどん論を進めてしまうのでどうかと思う点もいくつか。言うことに身も蓋もないし。しかし、いろいろ考えさせてくれる本ではあった。

*1:じつは本当にそう発言したのかも疑問だし、この発言が、それを否定的に捉える人にしか引用されていない現状が、ますます疑いの度を強めさせるのだが。詳しくは愛・蔵太さんのこれ

*2:ここで、実直な精神への拠所を「素晴らしい我が国家への帰属、愛国心」に求めさせよう、というのが最近の教育基本法改正の動きに繋がるわけで。教育は所詮国家のためのものであって、我々はそこで羊を被って虎視眈々と爪を研げば良いのだから、今言われている改革自体には反対じゃない。でも、上のような理由での改正だとして、それは成功しないだろう