日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

私憤と公憤

しかして腹の中では「実際そんな女はイヤ」と感じている「自分」が居るのに、それが最終的に「そうならない範囲でだったら何やったっていいんじゃないの?」に置き換わる、その途中のブラックボックスの仕組みが私的には謎だが、そういう風な置換、というか、フィーリングと論理の分離した在り方もあり得るんだろう。
http://d.hatena.ne.jp/flakesnow/20050528/1117212149

なんかとってもタイミングの悪い横レスで失礼しますが…
女性にしろ男性にしろ、

最後には、本人しか決断できないし、本人しか本人の人生は生きられない

というのはまったくそのとおりだと思う。ここ同意。そして、その決断の源泉になるのは個人の感情でしかない。まったき私的感情であり、客観が介在する種類のものではない。これは自分の経験上もそう。
ただ、その感情を表出したり、自分の感情や決断を行動に結びつける時のやり方が、私のあまり多くは無い人間関係からの経験では、男女で違うように思う。
ここからの話は、引用元で男女を一般化して話を進めていて、そこで問題定義をおこなっているのでそこに乗っかって話をする。全てを男女で一般化できるとは思っていないし、引用もとの人も簡単に一般化できると思っているとは思っていない*1
女性の場合、自分の感情をそのまま表出して、それを自分の行動に結び付けるんですよ、と周囲に表明することを厭わないように思う。正直であると思う。しかし一方で、男性は自分の私的感情をそのまま表出することに躊躇を覚える。でも感情は感情。ではどうするか?私憤を公憤に無理矢理置き換えるのである。
自分が感情的に考えたことに、客観的な理屈・論理を援用して、いかにもそれが「客観的に正しい」「社会の大勢は自分の味方だ」と主張しようとする。そして、それを自分の糧にして行動する。自分の感情だけで行動したら相手を説得できないと考えるし、また自分も感情を主張しつづけることはできない。
自分の客観的正しさを担保出来そうに無い時はどうするか。一旦、相手を「客観的に正しい」と見とめた上で、でも俺は…という態度を示す。相手の感情を感情のママ受け入れたわけじゃないんだよ、と言うわけだ。感情が介在して物事が決定したんじゃないんだ、と言い訳をする。
この場合の「正しい」は絶対的真理として受け入れる、ということではなくて、今日の社会的な文脈からすると「正しい」んだろうねということで、俺は俺なりの感情を持っているけど、社会の規範とかそういうものを知らないんじゃないよ、俺はわかった上で自覚的に行動しているんだよ、と言い訳をするわけ。
女性同士の諍いに対する反応というのは、常に自分はそのような客観的態度を(仮想的にも)とろうとしているのに、突然感情対感情の剥き出しの衝突や協力を見てしまって、どう対処したら良いか解らなくてオロオロしているわけです。ちょっとまて、と。そこに俺が客観的な説明をつけるための時間を与えろ、と。
個人の行動を決めるのは個人の感情と決断でしかない。それはそう。本当のところ、男もそれはわかっている。けれども、そのまま感情が行動に結びついた、と言えるほど、自分に自身を持てない。他人に通じるとは思えない。
なぜそうなのか、なぜ男女間で違っているのか、を、社会と関わる機会の多少とかと絡めて話そうとするとヤヤコシイ領域になるのでここではやめておく。ただ言えることは、個人関係に限って言えば、男性の「私憤を公憤に置き換える、もしくは私憤を公憤と切り離す」行為は言い訳や逃げ道の確保に過ぎないと思う。
じゃあ男性も女性みたいにすればいいじゃん、と言われるとね、こればっかりは「そうしたい個人的感情」だから、もうどうしようも無いんだと思います。というか、元来弱いので、自分に全幅の信頼を寄せることが出来ないから、そうでもしないと生きられないのです。

*1:ややこしいな。こういう回りくどさが問題なんだろうな