日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

私の日記のスタンス

日記になんでも書く、というスタンスを取ることは、有る意味、日記に書いてある内容を読むことで、その人のすべてが理解できると誤解させるリスクを負うことだと思った。そんなはずはないのだけれど。ま、だから、そういうスタンスは取らない。
私の場合、ある意味、すべてがネタであり、それはつまり嘘だ、とか誇張している、ということではなく、こんなの別に面白くないじゃん、な平々凡々な日常の積み重ねであったりするわけだが、それを含めてネタなんである。だから、わりと、取捨選択して書く。行動の基本的な事実関係は押さえるけれど、それ以上はあんまり書かない。
そして、一見俯瞰的な視点で書いているようなことも、それはまさしく私の日常であり、つまりそういう「しょーもないこと」を考えていること自体が私の日常であって、生活とか恋愛とか仕事と言うのはある意味、その思索の敷衍に過ぎない。過ぎないって書いちゃうと語弊があって、それぞれの場面においては真剣なのであるが、しかしそれは日常の思索の過程をどう当てはめていくか、という実践の場であり、その生活自体が思索の対象ではない。
生活と言うのはエピソードの積み重ねであるから、そこに矛盾しない一貫性を見出すことなど出来なくて、でも自分が生活への思索を始めるとその一貫性を求めてしまいそうで、怖い。だから、その代わりに交換可能な理屈を積み立てて、生活に放出することで自我を保ったりしている。
それはもう、ちっちゃいころから変わらなくて、小学校のころ、日記を、毎日先生に出さなくてはいけなくて。自分、書くことねえな、とか思ってぜんぜん書かなかったんだけど。ある日何を思ったか書いた内容が「オバタリアンとは何か」みたいな似非考察。提出後返ってきた時の先生のコメントが「日記久しぶりですね」だけだったのは今にしてみれば結構恥ずかしい体験なわけであり、あのころから予兆はあったわけだが。
ま、とかなんとか言いつつ、実はあんまり日常を書かないのは、彼女と会ったときの話題を温存するため、という指向が一番働いているようは気もするが、じゃあおまえらの関係はネタで成り立っているのかと言われればその通りです、話のネタと食い気でつながっております、とここで書く、のは、さてどんなもんだろう。怒ったらあとで電話かメールくれ。冷たいとか言われるのはこのあたりに原因があることは自覚してるのであるが…