日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

今日の日記

6時起床。9時出社。午前中、無為なるお仕事。昼飯にスパゲッティ。
午後も、なんというか、私は何をしているのでしょう、と思いつつ、お仕事。7時過ぎに会社を出る。
GWの旅行の予定について考えようと、小雨の中を駅近くの書店へ行く。
観光ガイドとか時刻表とか物色した後、レジの前で

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

をみかける。ほお、噂には聞くが読んだことがなかったなあ、と、購入して帰宅する。で、読む



おまえは俺か!あ、いやいや。なんで、こんなに、あの、一人で飯を食うときの喜びと哀しみよ!言葉を弄して美味い不味いというのではない、美味い、ただ、単純に美味いというときの、自分と周囲を取り囲む関係性。関係性の中で美味い不味いなのではない、美味い不味いと周囲の関係性が織り成す、今、そのとき、なのだ。
自然食品の食い物の店に入って、つまり、その店に違和感を抱えながらも、それを突破するのは理屈じゃねえ、理屈なんかじゃねえんだ!とにかく圧倒的に、美味いってことなんだよ。俺たちは腹が減ってるんだ。
で、私は泣く。漫画読んで泣いたのはものすごく久しぶりだ

モノを食べる時はね
誰にも邪魔されず
自由で なんというか
救われてなきゃあ
ダメなんだ

独りで静かで
豊かで……

ああ。ああ!くそっ、漫画で泣いたのは久しぶりだよ…
ほいで
そんな思いを抱えつつ、酒などたらたら飲みつつ、母親に、連休に四国に遊びに行く話しなどをしていると。ちょwwwおまwwwwというよう話を聞き、愕然とするわけではないが、しばし呆然とする。なんだそれ。いや、だからどうするというレベルの話じゃないけど、なんだそりゃ。
しばらくいろいろと考えながら、急に、あれもこれも、些細な問題じゃないか、という気がしてくる。はは。ははは。
…で、食後。巻末の「あとがきにかえて」を読みながら、もう一度、泣く。
いくつも引用したい箇所があるんだけれど

頭の芯が少ししびれていくような感じ。
ひとりで日本酒を飲んだ時独特のものだ。
ふたり以上で話しながら飲むと、パーッと開く花が、開かず蕾のまま色づきながら頭の中で膨らんでいくような。
これ、でもけしていやな気分ではない。

そう、知らない街で、独りで呑む感じ。これ。

で、ね。この漫画に登場する店を巡る、ということをしている人もいるらしいのだけれど、それって、ちょっと、違うと思うのよ。いやさ、私も、それぞれの店はそれぞれに魅力的に見えたし、旨そうだなあ、と思ったし、近所を通ったら入るかもしれない。いや、入らないな。
この漫画は、なぜこんなに詳しく細かく偏執的に、店や街や人のディティールを描くのか。それは店や街や人のディティールが大切だから、ではない。そんなの全然大切じゃない。
ただ、知らない店に入り、一人で何物かを食うときに研ぎ澄まされる感覚によって感じ取る、街の匂い、店の匂い、人の匂い、そういうもののなかで自分の中で「立ち上がってくる」なにか。それを共有するためにディティール(その意味において、この作者の、膨大な情報の中から選択されているディティールの、選球眼のなんと巧みなことよ!)は絶対不可欠であるから、なのだ。
わざわざ街の名、店の名まではっきり特定できるように書いてあるのは、再訪を誘うためではなくて、一人で飯を入れる、というシチュエーションとの社会的つながりの中では、その街の名前から想起されるイメージが何よりも大切だからだ。
だから、真に『孤独のグルメ』主義者たらんとするなら、ここで取り上げられている店は『敢えて』避けるべきだ。『とある』街の、『とある』店で、あなた自身の生き様に裏打ちされた経験と知識の蓄積の囁きの、その上にうすっらと積もる綿埃のような経験をするべきなのだ、と思う。
というわけで、こんど浅草の『梅むら』で豆かんを食ってこようと思う私です。
…ええっと、あともう一つ。川崎で焼肉を食う回で、コンビナートの描き方のディティールが、上記で延べだ巧みさからはみ出して、不必要なほど細かい(いやさ、この回のテーマと工場のディティールは密接にかかわっているのだけれど、それにしても、だ)この作者、工場萌えの要素があるかもしれない。