日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

ナンシー関の死を改めて考える

ナンシー関が死んでから、早くも3年以上経つのか。ナンシー関は空気を言葉で表現する天才だった。ナンシー関は「王様は裸だ」とは一度も言わなかった。王様を裸だと言わない「空気」を、一流の諧謔で切り取って見せた。
アメリカンジョークが日本人にとってなんであるか、を一番端的に語り得るのは、ナンシー関を置いて誰がいよう。例えば以前に私が考えていた「欧米社会における『配管工』の含意」を、おそらくもっとも巧みに表現し得るのはナンシー関である。
いま、手元にある本の、一ページをひらいても、ブクマしておきたい言葉のオンパレードである。『歌唱力の独り歩き』『余計なものをそぎ落として、最後にはみのもんたの結晶だけが残るのである。キラキラと輝く100パーセント純正の”みの”の結晶』『キワモノから王道へ。えなりかずきの磐石』
ナンシー関は共有を強制しない。ナンシー関に続け、という凡百のテレビコラムニストはこの点を誤解している。ナンシーのコラムは芸であって主張ではない。だから共有を強制しない。……現役の批評家の人だと、豊崎先生にはもう少し頑張って欲しいのだが…
もしも今、ナンシー関はてなでダイアリーを書いていたら(という仮定自体がありえないのだが)、毎回、ブクマの嵐である。もう、しおりはさむところが無いほど。ブクマの嵐。
ナンシー関が死んだとき、世はblogブームの手前だった。いまこそナンシーを。こころにナンシーを。ナンシーだったらどう書くか?と考えるのではなく、モヒカン族でもムラ社会でもない、議論と批評の脱構築ナンシー関の精神をblogに。
瑣末な事実の係争もいいでしょう。クネクネもいいでしょう。派閥対立もいいでしょう。言葉遊びもいいでしょう。だけど、志を持ったならば、ありとあらゆる「芸としての批評」構築技術を洗練させ、ナンシー関の精神を、あなたのblogに。