日毎に敵と懶惰に戦う

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特定史観からの批判(つまり一種の思考実験)

マンガ版の風の谷のナウシカ批判。ちょっと面白かったので。

ナウシカの「人間=清濁あわせもつ」という議論は一般的には正論です。しかし、いま、その一般論をむなしくくり返すことにどんな意味があるのでしょうか。

紆余曲折があっても、人類は殺戮と破壊を許さない社会を着実に準備しつつあります。ナウシカは「新社会をつくろう! 自然と共生し、殺戮と破壊のない社会を!」とたからかに呼びかけるべきだったのです。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nausika.html

つまり、ナウシカが「墓所の主」を否定したことは、進歩と調和の否定である、と主張しているわけです。しかし、あれはそういう取り方をするべきではなくて、『例え自分たちが宇宙の調和を乱す存在だとしても、自らその死を選ぶことはありえない。それが一個の種としての意思である』という、つまり『トップをねらえ!』における銀河中心殴りこみ的な『生きろ』ではないんでしょうか。
ナウシカは、決して戦乱渦巻く世界を無批判に肯定しているわけではない。お花畑は受け入れられない、と言っているだけです。空想的ユートピアに逃げることなく、地に足をつけて漸進するしかないではないか、という、まっとうな主張をしているに過ぎない。(こういうことをいうと、また、現場絶対主義の悪弊、とか言われるわけですが)
どんな進歩と調和、美しい世界を主張したところで、それが自分たちの存在を否定する(現実の世界に当てはめるなら、イコール、自分たちの存在を前提とするならばならそんな世界は実現不可能、と読み替えられるだろうか)ならば、そんなものは受け入れられない。
「新社会をつくろう! 自然と共生し、殺戮と破壊のない社会を!」結構です、私もそんな世界がくればいいと思っている。そして、少しずつそれに近づく努力を、我々は常にし続けなければいけないでしょう。だから、この人の主張、別に私は反対はしません。
だけど、それをナウシカに当てはめて語るのは、所詮なんでも主義史観でなで斬りするような無作法だと思います。なんでもかんでもポリティカルコレクトできりつけるようなもんではないんでしょうか。